1 はなし塚

東京メトロ銀座線の田原町駅すぐそばに、本法寺(台東区寿2丁目)がある。日蓮宗のお寺である。浅草通りからちょっと奥に入ったところで、建物群にとりかこまれているが、なーに、探すのはごく簡単だ。はなし家や寄席の名前が彫り込まれたブロックを積み上げて、お寺の塀にしている。風変りな寺なので、行ってみればすぐわかる。本法寺の境内に、わりと大きめの石に「はなし塚」と刻み込んだ石碑が建っている。『落語の風景』第1回は、この石碑にまつわるお話のお粗末である。



いまの日本は、NHKや民間放送に対する政府・与党の締め付けや、学校・大学での国歌斉唱のおしつけ、大学の文系学部の見直し、特定秘密保護法、自衛隊海外派遣・派兵計画など、安倍政権下で嫌な時代を迎えている。2015年の、国境なき記者団による「世界報道自由度ランキング」では、日本の自由度は61位にまで下落した。

ふと、本で読んだ1930年代後半の日本のことが思い浮かぶ。法政大学大原社会問題研究所編著『労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動』(労働旬報社、1965年)によると、当時の権力による日本人のオツムのタガの締め付けはひどいものだった。報道や教育、学術研究に規制をかけ、ついには、娯楽にまでおよんだ。

日中戦争が始まった1937年、警視庁保安部が「松竹」やその他興行界の代表に、興行について注意をうながした。1939年には、警視庁が演劇台本の事前検閲を強化した。同年、外務省が、宝塚少女歌劇団がサンフランシスコで上演を予定していた「唐人お吉」の上演中止を命令した。また、警視庁保安課が、能狂言「大原御幸」が不敬のおそれがあるとして上演中止するよう警告した。ロシア・オペラ、バレー団の上演は、警視庁によって禁止された。1940年になると、「警視庁興行取締規則」が発令された。興行者、技芸者、演出者はそれぞれ許可申請を提出することを命じられた。同年「聖戦完遂」に即応するため関東在住の全浪曲家を打って一丸とする「日本浪曲協会」が結成された。東京講談組合・東京落語協会・講談落語協会の三者が合同して「講談落語協会」を結成された。このほかにも、東京漫談協会・帝都漫才協会その他三曲・舞踊・邦楽・奇術・大神楽などの協会があった。技芸者はこれら警視庁公認の協会に所属しない限り「技芸者の証」(一種の鑑札)が与えられず、したがって出演ができないことになった。(法政大学大原社会問題研究所編著『労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動』)

そうした風潮のもとで、東京のはなし家たちが、情痴・不義・遊郭などをテーマにした落語をやらないことに決めた。本法寺境内に「はなし塚」を建てて、その下に禁演の53話を葬ることにし、19411030日、序幕供養を営んだ。(山本進『図説 落語の歴史』(河出書房新社、2006年)

「はなし塚」の背面には、建立の能書きが彫られているのだが、塚は塀ぎりぎりに建てられているので、裏に回って読むことができない。そこで、前出の『図説 落語の歴史』から碑文を引用する。

昨秋九月東京落語家全員は国家新体制に即応し五 十三種の落語禁演を自粛協定して職域奉公の実を あげたり 乃(すなわち)これを記念し併せて葬られたる名作を弔い 尚古今噺等過去文芸を供養する為め詳細記録を埋めて建碑し以て菩提に資すと爾云(しかいう)」

『図説 落語の歴史』によると、葬られたのは『明烏』『五人廻し』『三枚起請』『山崎屋』をはじめとする、遊郭・岡場所を舞台にした艶ネタが多かった。同書は、正岡容「禁演落語時世相」(『完本 正岡容 寄席随筆』岩波書店、2006年所収)という文章を引用している。

上演禁止と云ったとて、当局から禁止されたのではなく、彼らが所謂自粛自戒の禁止である。その証拠には、謄写版印刷に付されているこれら上演禁止落語一覧表をその筋に提出しに行ったら、先方で、ではこれは参考にとどめ置くという程度に受理しておこう……よろしくこの種の中でも改訂して上演できるものは適当におやりなさい、という大変さばけた話であったそうだ。どうも今次の新体制に対する演芸界の連中にはこの種のゆきすぎがまことにすくなくないようである」

笑えない話である。



2 寄席発祥の地

「はなし塚」のある本法寺から浅草通りを上野駅の方向へあるくと、そう遠くないところに下谷神社がある。

神社に「寄席発祥の地」の石碑がある。石碑が建てられたのは最近のことで、1998年である。山本進『落語の歴史』(河出書房新社、2006年)や平凡社『世界大百科事典』によると、三笑亭可楽(さんしようていからく)というはなし家が1798年、ここに常設の寄席を開いた、とされている。



寄席の原型はすでに江戸時代初期にはじまっている。寺社の境内のよしず張りのなかで、講釈などをした。17世紀後半の天和・貞享期には、江戸落語の祖・鹿野武左衛門が、現在の八重洲通りあたりによしず張りの小屋をたてて興行した。

その後、はなし家が寺院・茶屋などで落語の会を開いた。現在の寄席のような形の原型は、1798年に大坂から江戸に来た岡本万作が,神田豊島町に常設の寄席を作ったのが最初である。これに対抗して初代三笑亭可楽が、現在の下谷神社の境内に寄席を開いたといわれる。

したがって、下谷神社の「寄席発祥の地」の碑は、おおざっぱにいえばそうであろうが、歴史的にきちんとしたものであるとは言い難い。

江戸人は落語好きで、19世紀初めの文政年間には、には江戸市中の寄席は125軒を数えた。

ところが、水野忠邦の天保の改革で、倹約・風俗取締り・芝居小屋の江戸払い・、寄席の閉鎖が行なわれた。このため、江戸の寄席は15軒に激減した。天保の改革が終り、19世紀中ごろの安政年間には江戸の寄席は息を吹き返し、172件に増えた。

明治人も落語好きだった。50件以上の寄席があったようである。しかし、寄席は映画に追われ、戦後になるとテレビに追われ、いまでは、定席は一桁になった。

現代の寄席はマニアがノスタルジーに浸る場所である。正岡容が戦前に書いた『随筆 寄席風俗』のなかの「昼席」は、「昼席ほど、しみじみ市井にいる心もちを、なつかしく身にしみ渡らせるものはない」という書き出しで、以下のような話を読ませてくれる。

           *
  震災前の旧東京には、まだ昼席にふさわしい、旧びた木づくりと、ちょっと小意気で古風な庭とをもったいろものの寄席があった。新石町の立花なんぞは、そういっても、夜席より、昼間がよかった。あのだだ長く薄暗い寄席の片すみ、万惣(注:当時のくだもの屋)果物をかぞえる声が、荷揚げの唄のように何ともいえず、哀しくひびいてくるのを背にしながら、守宮(やもり)のように板戸に倚よりかかって聞いている時、いつも世の中は、時雨ふる日の、さびしく、つつましい曇天だった――。冬の日の独演会の四席めには、そぞろ、高座が暗くなって、故人圓蔵のうら長い顔が、みいらのように黒くなった。私は、ひとしお、ひしと火桶を身に引き寄せては「野瀬の黒札、寄席の引き札、湯やの半札」と、可笑しき「安産」のとりあげ婆が、果てしなき札づくしを、そんな時、何にも換えがたく聞き入るのだった。
            *

けたたましい金属的なエレクトロニクス時代のメッセージではなく、一昔前のアクースティックなメッセージを受け取ることができる所が、寄席であった。



3 ほどこし

大店の若旦那が放蕩のせいで勘当される。若旦那の身分を失って世間に放り出されて、行き場を失う。落語ではよくお目にかかるパターンだ。「唐茄子屋」もその手の話である。

『落語全集』(大日本雄弁会講談社、1929年=昭和4年)上中下三巻は、高座の速記録を集めて編集したものだが、その下巻の三遊亭圓右の「唐茄子屋」では、勘当された若旦那が空腹のあまり世をはかなんで、吾妻橋から大川へ身投げしようとする。

江戸時代には、橋の上からの身投げはポピュラーな自殺方法だったようだ。身投げをする人が多い橋で、橋番が気をつけていると、橋の欄干に足をかけて飛びこもうとする人がいた。橋番がかけよって、その人の帯をつかみ、大声でどやしつける。「うぬだろう。毎晩ここから身を投げるのは」――三代目三遊亭金馬、四代目三遊亭金馬『落語東京名所図会』(講談社、1976年)に出ていた江戸小噺である。

話を戻して、吾妻橋から身を投げようとした若旦那を止めたのは、偶然、橋を渡っていた伯父さん。なんだ、てめえか、とめるんじゃなかった、さあ、とっとと跳びこみな、と伯父さんはいう。若旦那は何でもするから助けてください、と妙な命乞いをする。

伯父さんに言われて、若旦那は翌日から唐茄子売りの行商に出る。天秤棒で唐茄子を担ぎ、へっぴり腰で売り歩く。

誓願寺店という長屋あたりで日の丸弁当を食おうとしたときのことだ。それを見ていた3日間ご飯を食っていない子どもがご飯食べたいと泣き叫ぶ。若旦那は子どもに弁当を与え、母親から極貧の日々の話を聞いて、母子のために、その日の売溜(売上金)すべてを手渡す。

伯父さんは売溜を持たずに帰ってきた若旦那をいったんはとがめたが、話を聞いて伯父さんは「ウム、よくやった」と若旦那をほめちぎり、羽織を着て、提灯を手に、誓願寺店まで若旦那に案内させる。行ってみると、若旦那が与えた売上金は、たまっていた店賃だと言って大家が強奪していた。はかなんだ母親は首つり自殺未遂。長屋は大騒ぎのまっ最中だった。

落語の舞台になった誓願寺店跡は、誓願寺(関東大震災後に府中市に移転)周辺にあった貧乏長屋で、現在の台東区西浅草2丁目あたり。いまでは貧乏ではない住宅密集地になっている。



善玉の若旦那、悪玉の大家が登場する「施し」をめぐる、わかりやすい落語である。現代でも相対的貧困が問題になっているが、絶対的貧困があらわだった江戸時代だからこそ、「施し」という倫理が笑い話のテーマにさえなりえたのだろう。

世界3大宗教のキリスト教、イスラム教、仏教ともに、「施し」を宗教上の尊い行為だとしている。キリスト教はルカ伝1233節で、自分の持ち物を売り払って施しなさい、と施しを進めている。イスラム教の六信五行に「ザカート」(喜捨)がある。信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼の五行の一つだ。

日本イスラム協会監修『イスラム事典』(平凡社、1982年)によると、ザカートは本来の意味は「浄め」で、最初は自発的な施しの行為だったが、のちに義務化されて、救貧税の性格を持つようになった。現在では強制的な施しをザカート、自発的な施しをサダカ、と使い分けている。

インドネシアは世界最大のイスラム人口を抱える国だ。かつてのスハルト大統領は、このザカートを利用して私腹を肥やした。大統領の息のかかった社会福祉財団こと「ヤヤサン」を大量に設立し、法令によって国営企業の収益の5パーセントを寄付させた。後に、民間企業や高額所得者からの寄付も義務付けた。寄付金の多くは財団内部で適当に処理され、スハルト一族が投資に使った、とされている。

仏教の「布施」は『岩波仏教辞典』によると、出家修行者、仏教教団、貧窮者に施しをすることだった。今では、主として葬式のさいの僧侶に対する謝礼のことをいう。



4 擬宝珠

擬宝珠をなめるのが大好きな若旦那がいた。橋の欄干などの擬宝珠をなめつくして、浅草寺の五重塔の先端の擬宝珠がなめたくなった。舐めたいが、五重塔の先端のでは舌がとどかない。思い悩んで若旦那は病の床に。

寺院建築の装飾は正しくは宝珠といい、橋の欄干などの飾りは宝珠に似せて吊ったのもので、したがって、擬宝珠という。

それはさておき、息子の願望を知った大旦那が、浅草寺に懇願して宝珠をなめる許可を特別に出してもらった。若旦那は組まれた足場を登り、宝珠をなめることができた。

元気になって下りて来た若旦那に大旦那がたずねる。

「どんなじだった?」
「たくあんの味でした」
「で、塩加減は、五合か一升か?」
「もうちょっと塩辛かった」
「なら三升か、五升か?」
「いえ、六升(緑青)の味がしました」

という他愛無い話と他愛無いオチ。江戸の頃からの古典落語だが、今では演じる落語家も少なくなった。講談社の『明治大正落語集成』に、三遊亭圓遊の高座速記を起した話が収録されている。この時の題名は「金の味」。

浅草寺の主だった建物は1945年の東京大空襲で焼けてしまった。現在の五重塔は1973年に再建されたものである。手入れが行き届いているせいか、写真で見る限り錆などは見当たらない。

浅草寺へ五重塔を見に行ったのは5月の初め。伝法院の庭が公開されていた。界隈の喧騒がふと消えてしまったような錯覚を起させる静かな庭だった。





5 メタモーフォシス

浅草蔵前の八幡さまの境内に、白い犬がいた。近所の人に可愛がられていた。「白い犬は人間に近い。次は人間に生まれ変われるぞ」と口々に言われ、白犬もその気になって、三七、二十一日の精進潔斎裸足参りの願掛け。

満願の日の朝、心地よいそよ風に吹かれていると、白い毛がふわふわと飛んで行き、人間になった……。

というところから始まるのが、落語『元犬』である。

動物が人間に変身したり、人間が動物になったりする物語は、昔話やディズニーのアニメ映画でおなじみだ。カフカの『変身』に至っては、文学好きな大人がマジに文学論を繰り広げている。



蔵前神社に行ってみた。この神社は相撲ゆかりの地で、塀の石柱には「千代の山」「東富士」「錦錦」などの名が彫り込まれている。江戸時代には境内で相撲興行があった。また、戦後、両国国技館がGHQに接収されていたころには、神社の近くの隅田川沿いに、蔵前国技館が建てられていた。

蔵前神社の境内には、落語『元犬』の舞台になったことを記念する、犬の像が置かれていた。高札がたてられ、その所以を説明している。

ひとつだけ気になることがあった。落語の犬は白い犬だが、境内の犬の像は茶褐色である。



6 吾妻橋

腕のいい左官なのだが、ばくち好きで暮らし向きは年中火の車。ある日、吉原の妓楼から使いの者がやって来て、娘さんを預かっている。ご同行ねがいたいという。

妓楼へ行くと、女将さんが百両の大金をさしだした。極貧の暮らしを見かねた娘が、父母がどん底生活から抜け出せるよう、その更生資金にと、女将からかりた金だという。その百両が2年のうちに返せないと、娘は店に出て客をとることになる。

左官は百両の金を懐に、自宅へ向かった。吾妻橋の上に来ると、若い男が大川にとびこもうとしている。

おい、ちょっと待て。とびこもうとするヤツをとめて、わけを聞くと、店の売上金100両をとられてしまった、もう死ぬしかない、という。

すったもんだの末、左官は、この金は親孝行な娘が吉原の角海老楼に身売りしてつくってくれた金だ。だが、人の命にはかえられない。この金を失うと娘は苦界に沈むことになるが、それでも死ぬ事はないだろう。さあ、もって行け。いや、もらうわけにいかないと遠慮する男に、左官は投げつけるようして百両を渡す。

三遊亭圓朝作の人情話「文七元結」である(青空文庫で読める)。結局のところ、若い男は金をとられたのではなく、取引先に忘れてきていただけだった。



店の主人は吉原へ行って左官の娘を取り返し、若い男と一緒に左官の家を訪ねて、あなたの気風にほれぼれした、これを御縁親しいお付き合いをお願いしたいと、丁重に礼を言う。これが縁で若い男・文七と左官の娘・お久は夫婦になって店を構えて、「文七元結」と評判になる元結で大成功した。

あっけらかんの、結構なユートピア話である。オスカー・ワイルドの『幸福な王子』も心温まる話だが、あの西洋の童話にはちょっと暗いところがある。

笑えるた利他主義とは、いいものだ。ヒンドゥー教の入門書にヒンドゥー教の修行者がチャパティーを焼いていたら、犬がくわえて持って行ってしまった。修行者は必至で犬を追いかけてそのチャパティーをとりもどた。それからおもむろに、チャパティーにインドのバター・オイル、ギーをぬって、それを犬に与えて、言った。「チャパティーには、やはり、ギーをぬらなくては……」



7 なめくじ長屋

 

落語では身投げの名所になっている吾妻橋を、浅草側、つまり台東区から墨田区に向かって渡り始めると、巨大な金色オブジェが近づいてくる。アサヒビールが20数年間に本社ビルを建てたとき、フランスのデザイナーに依頼して建てたビルの屋上飾りである。「炎のオブジェ」というれっきとした名前がつけらえているのだが、オブジェのデビュー以来、たいていの人は、良くて金のキント雲、口の悪い向きは黄金の雲古と、思い込んできた。

吾妻橋を渡り切り、なおも道を歩き続けると、都営地下鉄の本所吾妻橋駅が見えてくる。本所吾妻橋駅を過ぎると、業平橋がすぐだ。かつては運河の上に架かっていたが、いまでは陸橋になっている。運河が埋めたてられて細長い公園になったからだ。

業平橋を過ぎて間もなく、進行方向右手側に有名な「なめくじ長屋」の跡がある。5代目古今亭志ん生が、家賃をただにするからと大家に言われて住んだ長屋のあったところだ。

志ん生はこの長屋住まいが自慢で、話のまくらや著書のなかで、あれこれ語っている。商売が商売だけに、語り口は貧乏極楽といった雰囲気である。

「いま帰ったよ、という口の中にワアッと蚊の群れがとびこんで口がきけなくなる」

10センチ以上もある茶色いナメクジがあちこちからおしよせてくる。塩をかけたくらいでまいるような生やさしい奴ではない」

低湿地帯に建てられた長屋だったのだろうが、いまでは、コンクリートのアパート街に変貌している。

それに、押上が目と鼻の先だから、スカイツリーがぬーっと突っ立ているのが見える。すごい圧迫感だ。こういう風景を、もし、志ん生が見たらどんな話に料理するのだろうか。

「健康な住居は民主主義の基礎である。住宅が悪く思索空間がなければ個性も自我も育たない。集団だと威勢がよいが、一人になるとからっきし意気地がなくという国民性は、自我の未確立とかかわっている」

そういった観点から早川和男氏が『住宅貧乏物語』(岩波新書)を著したのが1979年の事だった。

その後、日本の住宅は世界で3番目の経済力にふさわしいレベルに高められ、日本の民主主義もそれなりに向上したのだろうか。

それとも、お笑い草に過ぎなかったのだろうか。
(文と写真: 花崎泰雄)

           ――落語の風景はここで中断、続きはいずれまた――