8 夢の酒

去年(2015年)夏に第7回で中断したままになっていた『落語の風景』を再開しよう。続編だから、第8回から始まる。

7回では、五代目古今亭志ん生が自慢の種にしていた「なめくじ長屋」があったあたりに足を運んだ。現在では、目の前にスカイツリーがぬうーっと立っているところだ。

そこから少々あるいて向島2丁目の見番通りに行った。向島花街の料亭といわゆる置屋の合同の組合である向島墨堤組合があって、通りの名前はそこに由来するのだろう。向島花街のメインストリートだが、昼下がりという時間帯もあってか、殺風景なものだ。

料亭に芸者を呼んで面白がるという時代ではなくなった。芸者という職業も芸者を呼ぶ料亭も日本中で絶滅危惧種になっている。

八代目桂文楽が得意とした「夢の酒」の舞台は、向島が花街として大いににぎわっていた頃のはなし。用あって向島に出かけて若旦那が夕立に会い、軒先をかりて雨宿りしたところ、あら、若旦那と、その家の女主人に座敷に招き入れられ、酒食の接待を受けることになった。

若旦那、飲み過ぎたせいか頭痛が始まる。女主人が床をとってくれたので、よこになって休むことにした。すると、私も頭痛がしてきたと、女主人が真っ赤な長襦袢姿で、若旦那の蒲団の中にもぐりこんできた……とは、若旦那が自宅の座敷でうたた寝をしているとき見た夢。風邪をひくからとおこした妻に、若旦那が夢の話をすると、妻がわーっと泣きだして大騒ぎ。

話の続きは、『桂文楽落語全集』の活字やCDDVDでお楽しみあれ。てっとり早くは、youtubeで「夢の酒」を楽しむこともできる。

向島花街最盛期の落語である。このような色っぽい話がすぐ手にどきそうなところにあるような夢をみさせる十分な花柳界の賑わいが背景にあった時代だった。



時代は移って、いまでは、はとバスが向島の料亭で会席料理を食べながら芸者衆の踊りを見るツアーを夜のコースに組み入れている。



9 桜餅

いい仲になった大店の一人娘と徳三郎という店の若い者が、ばあやと小僧を伴って向島に花見に出かけた。柳橋の船宿から船で向島に行き、土手で花見をしながら老舗の料理屋・植半でお昼を食べた。お昼がすむとお嬢さんが小僧に、おとつぁんのお土産にするからと、長命寺前の山本で桜餅を買っておいで、と小僧をお使いに出す。植半から長命寺までは、ちょっとした距離がある。小僧が桜餅を買って植半にかえってくると、酔ったばあやがいるだけ。お嬢さんは癪がおきて奥の座敷でお休みになっている、とばあやが言う。小僧が様子を見に行こうとする。ばあやが、おまえは行かなくてよい。お嬢さんの癪は徳どんに限る。本当に気が利かないんだから……。一人娘と店の若い者の仲を疑った大店の主人に問い詰められて、小僧が白状したてんまつである。

落語「おせつ徳三郎」の前半「花見小僧」にでてくる長命寺の桜餅屋・山本は、現在も長命寺そばの隅田川沿いの店舗で営業を続けている。



桜餅には長命寺と道明寺の2流派がある。前者が関東系、後者が関西系だ。小豆餡を小麦粉で作った皮で巻き、塩漬けした大島桜の葉で包んだものが長命寺桜餅。道明寺粉(もち米)を使ったものを道明寺桜餅という。

うどんが好きな人もいればビーフンが好きな人もいるように、長命寺系の桜餅が好きな人もいれば、道明寺系が好きな人もいる。食べ方も、包んである塩漬けの桜葉ごと食べてしまう人もいれば、桜の葉をとってから食べる人もいる。

桜餅の葉をとるか、とらないか。ときどき論争になる。葉ごと食べる人は、桜の葉の塩味と餡の甘味が口の中に広がり、いい塩梅だ、という。葉をとって食べる人は、葉ごと食べると葉のざらざらが感じられて、興をそぐので、桜の葉をとり、残された薫りを感じながら食べるのが乙というものだと主張する。

これはかなり重要な論争点らしく、桜餅の山本の店内に入り桜餅を注文すると、その栞に食べ方が書いてあった。

要約すると、包んだ桜の葉ごと食べようと、葉をとってたべようと、食べる人のお好み次第ですが、当店では、葉をとって召しあがっていただくことをおすすめしています、と書かれていた。

桜餅の山本で、かわをむいて食べるようにとすすめられた客が、体をぐるりと反転させて、隅田川の方を向いて長命寺桜餅を食べたというオチがあるのだが、それは栞に書かれていなかった。



10 ライオン

長命寺桜餅の山本から隅田川左岸の道路を下って行くと、ほどなく三囲神社にたどり着く。

落語「野ざらし」は三囲神社前の土手で魚釣りをしていた長屋のお年寄りが、そろそろ家に帰るかと腰を上げたとき、土手の草むらから鳥が飛び立ち、行ってみると野ざらしのしゃれこうべがあった。おりしも入相の鐘がごおーんとなる。ご隠居はしゃれこうべに飲み残しの酒をかけて「野を肥やす骨に形見の薄かな。生者必滅会者定離、南無阿弥陀仏」と供養してやった。するとその夜、若い娘がご隠居を訪ねてきた。聞くと、お年寄りが夕方供養してやったあの野ざらしのしゃれこうべの幽霊だという……。

三囲神社は「和歌三神」にも出てくる。三囲神社へ雪見に行った風流人が土手下で酒盛りをしている3人の乞食を見かけた。風流人は3人に持っていた酒をふるまった。3人の乞食は「糞屋の安康秀」「垣根の本の人丸」「なりんぼうの平吉で業平」とそれぞれ名乗る。「和歌三神ですな」と風流人が言うと……。

三囲神社へ行くと、境内に狛犬とならんでライオンの像が鎮座していた。もともとは三越百貨店池袋店にあったものだ。2009年の閉店にともなって三囲神社に移ってきた。



三囲神社は江戸時代の越後屋三井呉服店の時代からの三越百貨店の守護社で、銀座三越の屋上に今でも分社がある。「囲」の字は、三井の「井」の字を国がまえで囲んだもので三井を守るに通じる、ということなどがその理由といわれている。

神社の境内にリアリズムのライオン像があるのは、ちょっと妙な雰囲気である。神社におかれているのは狛犬で、このライオンのリアリズムの像に比べれば狛犬は愛嬌がある。

狛犬は高麗(こま)から日本に伝来した。もともとはインドのライオン。インドにもライオンがいる。アフリカのライオンより小型だが、現在では、ほんの少数がインド国内で保護されている。

ライオン(獅子)は仏教を守るための動物で、獅子の像はインドからシルクロード経由、朝鮮半島から仏像とともに日本に伝えられた。ちなみに普賢菩薩の乗り物は獅子である。日本に伝えられた後、獅子は徐々に犬の風貌をおびるようになり、獅子の面影は獅子舞に残された。

神仏習合を経て明治政府が神仏分離の政策をとった時、狛犬はお寺よりも神社の方に多く残されることになった。

そういう意味で、三囲神社の三越ライオンは狛犬の先祖返りを見るようで面白い眺めである。



11 お初地蔵

落語「蔵前駕籠」は騒然とした幕末の江戸の話である。

蔵前通り厩橋近くの榧寺あたりに追いはぎが出没していた。「みどもらは徳川方の浪人である。軍資金に困っているのだ」と、吉原通いの客からが金子をむしりとっていた。そういうわけで、日没後には蔵前を通って吉原へ向かう駕籠が出なくなった。

なるほど、こういう時だからこそ吉原へ行けばさぞかしモテるだろうと、物好きな男が祝儀をはずんで、駕籠を出してもらった。追いはぎが出たら駕籠かきは逃げてよろしいという約束の上で。

客の男は着物を脱いでたたみ、駕籠の座布団の下に敷き、裸になって駕籠に乗った。榧寺近くに来ると案の定、抜き身をさげた追いはぎが「みどもらは……」とあらわれた。駕籠かきは約束通り、一目散に逃げ出す。追いはぎが籠の中をあらためると、裸の男が一人。「ん?既に終わったかぁ」

榧寺は江戸時代の初めごろからある寺で、境内に飴なめ地蔵とお初地蔵がある。飴なめ地蔵は頬がふっくらとふくれた童顔の地蔵で、まるで飴を口にふくんでいるような風情なので、飴なめ地蔵。永井荷風が『日和下駄』に面白いことを書いているので、少々長くなるが引用してみよう。



 「御厩河岸の榧寺には虫歯に効験のある飴嘗地蔵があり、金竜山の境内には塩をあげる塩地蔵というのがある。小石川富坂の源覚寺にあるお閻魔様には蒟蒻をあげ、大久保百人町の鬼王様には湿瘡のお礼に豆腐をあげる、向島の弘福寺にある石の媼様には子供の百日咳を祈って煎豆を供そなえるとか聞いている」
 「無邪気でそしてまたいかにも下賤ばったこれら愚民の習慣は、馬鹿囃子にひょっとこの踊または判じ物もの見たような奉納の絵馬の拙い絵を見るのと同じようにいつも限りなく私の心を慰める。単に可笑しいというばかりではない。理窟にも議論にもならぬ馬鹿馬鹿しい処に、よく考えて見ると一種物哀れなような妙な心持のする処があるからである」

永井荷風が榧寺の飴なめ地蔵に触れながら、お初地蔵のことに触れていないのにはわけがある。『日和下駄』は大正3年(1914)ごろ書かれた。お初地蔵がつくられることになった児童虐待の凄惨な事件があったのは、その7年後の大正11年(1922)のことである。

細馬宏通氏が『滋賀県立大学人間科学部研究報告 16号』(2004.11)の「ニウス:物語と『事件』の通路」の中で、お初地蔵の縁起のあらましを紹介している。

それによると、大正11年(192275日、月島荷揚場に漂着した手提げ鞄の中から頭と両足を切断された女児の死体が出てきた。警察の調べで、遺体は浅草のセルロイド業、関蔵と常磐津の師匠マキ夫婦の養女で11才になる初とわかった。夫婦が養女の初を殺害したことも判明した。やがて、切断された初の生首も廓橋付近に浮かんだ。

裁判の中で、当時10歳だった初は、養父母から繰り返し折檻、つまりは家庭内暴力による虐待を受けていた。警察から説諭と指導を受けること、じつに27回に及んでいたことも分かった。家庭内暴力による傷害致死と死体遺棄事件だった。人間に巣食う闇の衝動。お初を憐れんだ人たちが榧寺にお初地蔵を建立した。事件は発生から4年後に、野村芳亭監督により「新お初地蔵」として映画化され、浅草松竹館で上映された。

お初地蔵は遠い昔の追憶ではない。厚生労働省の調査によると、2014年度に全国の児童相談所が対応した児童虐待の件数は88931件に上った。調査を始めた1990年以来、件数は増え続ける一方である。また、厚生労働省の調べでは、2013年度中に虐待を受けて死んだこどもが36人いる。



12 浅草見附

東京の地下鉄には「赤坂見附」「虎の門」「御成門」などの駅名がある。かつて徳川幕府が江戸城周辺の要所に設けたセキュリティー・チェックポイントの名残である。チェックポイントにはがっちりとした門が設けられていた。「○○見附」「△△門」とよばれたこれらのチェックポイントが、総計何か所あったかについては確定的な資料が見つかっていない。「見附」と「門」をひっくるめて、江戸三十六見附と俗にいう。だが、おそらくは、36以上あっただろうと推定されている。

地下鉄とJRの浅草橋駅近くの神田川に浅草橋がかかっている。この橋の北側の公衆トイレの傍に「浅草見附跡」と彫られた石碑が建っている。かつての浅草見附も江戸城36見附の一つだった。ただし、現在石碑が建っている場所ではなく、神田川を挟んで対岸の南側の岸にあった。石碑が北側に建てられた理由については知らない。「便宜上」という理由ではなかろうかと想像する。だが、過去の事件を思い起こせば、「浅草見附跡」の石碑は神田川南岸でないとピントはずれな感じがする。



現在の暦で言えば、江戸の半分以上が焼けた16573月の明暦の大火事で、浅草見附でも大勢の人が死んだ、と古い記録に書かれている。小伝馬町の牢屋に火が迫ってきたので、牢奉行が囚人たちに必ず牢にもどることを誓わせたうえで、一時的に解放した。この話が、赤坂見附の役人に小伝馬町の牢から囚人が脱走したと誤って伝わり、浅草見附の番人たちが門を閉じてしまった。

このため、江戸の町中から火に追われて浅草方面に逃げようとした人々が浅草見附で身動きが取れなくなった。パニックの中で2万人を超える人々が死んだと、古い史料が伝える。

その資料の一つ、明暦大火の4年後の1661年に刊行された浅井了意『むさしあぶみ』には、こんなことが書かれている。

牢屋奉行の石出帯刀が囚人たちを「汝等今は焼き殺されん事疑なし、まことに不憫のことなり……暫く許し放つべし」、されど、助かった者はひとり残らず下谷の「れんけい寺」に来るべし、と条件を付けて一時解放した。「若しこの約束を違へて参らざる者は、雲の原までも探し出し其身の事は申すに及ばず、一門も成敗すべし」と付け加えた。『むさしあぶみ』によると1人をのぞき、生き延びた囚人は皆帰ってきた。「帯刀に情けあり、科人にまた義あり」と話題になった。逃げた一人はのちにつかまり死罪となった。ここまでは名調子の講談ふうだったのだが、そのあとがいけない。浅草見附の門を閉めてしまった門番の判断が杓子定規すぎて悲劇を招いた。

ふたたび『むさしあぶみ』から。「門はたててあり、あとよりは数万の人押しにおされてせき合ひたり……焔は空にみちみちて、風にまかせて飛びちりつつ、重なり集り押し合ひ揉み合ふ人の上に、三方より吹きかけしかば、数万の男女騒ぎたち、あまりに堪へかねて或は人の肩をふまえて走る者あり……」

石垣の上から堀(神田川のこと)の中へ飛び入込むものもいたが、途中で石に頭をぶつけて死ぬものが続出。やがて堀は死人やけが人で埋まった。死者23千人。死体を踏んで向こう岸に渡って助かった人もいた。だが、……。

「かくする間に重々にかまへたる見附の櫓に猛火もえかかり、大地にひびきて、どうと崩れ死人の上に落ちかかる……諸人声々に念仏申す事、きくにあはれを催す間に、前後の猛火にとりまかれ、一同にあつと叫ぶ声、上は悲想のいただきに響き、下は金輪の底までも聞こゆらんと、身の毛もよだつばかりなり」

明暦の大火の折、浅草見附で猛火に包まれパニックの中で死んだ人々にとって、現在「赤坂見附跡」が立っている北岸は、目指してもとどかぬ遠い岸だった。

浅草見附の名前が、大店の若旦那が吉原の花魁、松葉屋瀬川にぞっこんになる落語「松葉屋瀬川」や、暴者だが気風のいい左官と新影流の達人で金持ちの浪島文治郎の交流「業平文治」、横綱とタニマチの人情落語「幸助餅」などに出てくるのは、大火事のずっと後のことである。



13 回向院

前回の「浅草見附」で、明暦の大火のさい浅草門が閉じられて、パニックのなかで2万人以上の人が死んだ話をした。明暦大火の死者は総数で4万人から10万人と歴史資料によって相違があるが、6-7万人が妥当な数字とみられている(内閣府『広報 ぼうさい』(26号、2005年)。

徳川幕府は6万数千人の死者を本所牛島新田(今の墨田区両国)に葬った。これが両国の回向院の起源である。

その100年余のち、回向院は谷風や雷電が活躍する相撲の場所になった。回向院のサイトの記事によると、公共社会事業の資金集めのための勧進相撲の興行回向院の境内で初めて行われたのは明和5(1768)のこと。天保4(1833)からより春秋2回の定期興行になった。回向院の相撲は、明治42年の旧両国国技館が完成するまでの76年間続いた。その縁で回向院の境内には、相撲協会が建てた「力塚の碑」がある。前回の「浅草見附」で少しだけふれた落語「幸助餅」では、主人公の相撲道楽の幸助が、借りた金50両を祝儀だと言って、回向院相撲で活躍していたひいきの横綱に渡したことで、話が始まる。

 

また、落語「猫定」は、ばくち好きな男が妻と間男によって殺されるが、その男が可愛がっていていた猫が敵討ちをするというお話。忠義な猫であると、お上からほめられ、回向院に猫塚がつくられたそうだ。いまでも回向院の『鼠小僧次郎吉の墓』の墓の隣にある「猫塚」がある。いや、あれは「猫定」の猫塚とは別物だと、異論もある。



そういうわけで、回向院は動物も積極的に供養の対象にしていて、境内には「猫塚」以外に「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」など、いろいろある。



14 首尾の松

大阪の遊女と醤油屋の手代の心中事件を脚色して浄瑠璃の名作『曽根崎心中』を書いたのは近松門左衛門である。初代 古今亭志ん生がこのお初徳兵衛の物語を落語「お初徳兵衛浮名桟橋」に仕立て上げた。遊びほうけた果てに勘当され、なじみの船宿にころがりこんで居候を決め込んでいるうちに、ひょんなことからにわか船頭になってドジをふみつづける徳兵衛を主人公にした落語「船徳」は「お初徳兵衛浮名桟橋」の前段部分である。

やがて、徳兵衛も一人前の船頭になった。芸者衆にもてるイケメン船頭だった。ある日、芸者のお初を乗せて大川を蔵前あたりまで来たとき、現在でいう視界ゼロの集中豪雨に見舞われた。船をこぎ続けることができなくなり、首尾の松あたりにもやった。すると「なかにお入り」とお初。「それはできません」と船頭の徳。「なかにお入り」と再度お初。徳兵衛が中に入ると、近くで落雷があったのか、バリバリドーンという大音響。お初は徳兵衛にかじりつく。かじりつかれた徳兵衛は……。

隅田川の首尾の松あたりに船をもやって、波に揺られながら一日ぼんやりしていると、「あ~ぁ」と大あくびが出てくる、という情景を想像しながら、粋なあくびの稽古をするのが落語「あくび指南」。

落語ではないが、佐々木味津三『右門捕物帖』の「首つり五人男」のエピソードにも首尾の松が出てくる。

「中秋九日の夕月がちょうど上って、隅田の川は足もとにきらめく月光をあびながら、その川の上へぬっと枝葉を突き出している大川名代の首尾の松」に……人が、人間が、ぬうと川づらに突き出した首尾の松の長い枝の高いところに、青白いぶきみな月の光に照らされて、ぶらりと下がっているのです。……二つ、三つ、四つ、五つ、男ばかりじつに五人もが、さながら首くくりの見せ物かなぞのように、ずらずらと一つ枝に長い足をそろえながらたれさがっているのでした」

江戸時代の蔵前・首尾の松あたりがどんな風景だったは、国会図書館のサイトの広重の絵や、江戸東京博物館のサイトの国芳の絵が参考になる。

首尾の松は現在、東京都台東区蔵前1丁目3番の蔵前橋のたもとにある。台東区教育委員会がたてた説明板があり、以下のことが書いてあった。

寛永年間(1624-43)に隅田川が氾濫した時、阿部豊後守忠秋が馬もろとも隅田川に飛び込んで対岸に渡って見せた。将軍家光があっぱれとほめたので傍らの松を「首尾の松」とよぶようになった。

また、蔵前は船で吉原へ行き来する水上ルートになっていて、上り下りの船が首尾の松に船をとめ、吉原での首尾を語ったのが名前の発端、という説もある。

さらに、江戸時代に海苔をとるための「ひび(篊)」がこのあたりにあり、『ひびの松』がなまって「首尾の松」になった、という説明もある。



現在の首尾の松は初代から数えて7代目に当たる。観光協会と地元関係者が1962年(昭和37年)に植えた。

台東区教育委員会の説明板によると、元祖首尾の松は、現在の位置から100メートルほど川下の蔵前の四番堀と五番堀の間の隅田川岸にあったそうである。



15 富岡八幡宮

越後から来た縮売り新助が深川の芸者に裏切られて狂気に陥り、富岡八幡宮の例祭・深川八幡祭りの夜、その芸者を切り殺してしまう――落語にしては、深刻で血なまぐさい「名月八幡祭り」の舞台が富岡八幡宮である。



もともとは歌舞伎。河竹黙阿弥の「八幡祭小望月賑」が、評判をとり、浮世絵の題材にもなったことなどから、落語化された。

黙阿弥が歌舞伎用に書いた作品は、本郷の呉服屋甚之助が深川芸者おみのを殺した事件をヒントにした。実話の脚色であり、内気な地方の商人の一途な恋心と深川の花柳界で育ったしたたかな芸者の恋の打算がもたらした、不毛な恋の果ての惨劇――民放昼下がりの時間帯にピッタリなお話である。狂った男が悪いのか、狂わせた女が悪いのか。永遠に答の出ない問題である。

黙阿弥の作品は、明治なって河竹新七が新しく「籠釣瓶花街酔醒」に改作した。実話・吉原刃傷事件と縮屋新助を合わせたようなつくりで、こちらの方はいまでも上演されている。この2月、歌舞伎座で上演された。

富岡八幡宮の深川八幡祭りは、山王祭り(赤坂・日枝神社)神田祭(神田明神)とあわせて江戸3大祭りと言われた。深川八幡祭りの本祭は3年に1度で、次は2017年。



16 増上寺

増上寺は徳川将軍家の庇護で隆盛を極めていたが、明治維新で寺領を新政府に召し上げられ、米軍の東京空襲で寺を焼かれ、戦後やっとのことで再建して現在のような形になった。

増上寺の門前近くの長屋に若い学者が住んでいた。近くの豆腐屋の七兵衛さんが差しれる豆腐屋おからやおむすびを食べて、勉学に励んでいた――という落語「徂徠豆腐」は江戸時代の話である。

豆腐屋は何年も差し入れを続けたが、ある時、豆腐屋が病気でしばらく仕事を休んでいるうちに、長屋から若者の姿が消えてしまった。

やがて豆腐屋さんの店は火事の延焼で焼け、知り合いの家に身を寄せた。そこへ知り合いの大工さんが、ある人からのお見舞いだといって十両の金を届けてきた。

しばらくすると知り合いの大工さんがまた訪ねてきて、豆腐屋七兵衛を増上寺門前の火事の現場に案内する。すると焼け落ちた豆腐屋のあとに、新しい店が建っていた。その店の前に、かつての差し入れの豆腐を食べながら勉学に励んでいた学者が立っていた。先の十両も、新築の豆腐屋も、昔世話になったお礼だといった。

学者の名が荻生徂徠であると聞いたとたん、豆腐屋七兵衛さん、赤穂の義士に腹を切らせるよう進言した学者から、十両や家をもらうわけにはいかない、と怒り出す……。



ところで――。

荻生徂徠が赤穂の義士たちに切腹させるよう進言したのは、落語だけの話ではなく、歴史的な事実だった。赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、個人的道徳と政治的秩序のどちらを優先するか、当時の武士社会にとっては、なかなかやっかいな問題だった。

幕府の諮問にこたえて上程されたと伝えられる「徂徠擬律書」によると、討ち入りは浪士たちの「私の論」にすぎず、その行動は「公の法」に違反しているので、断固処刑すべきであるが、その忠義心を認め、侍らしく切腹を命ずべきであるとした(尾藤正英「国家主義の祖形としての徂徠」尾藤正英編集『荻生徂徠 日本の名著16』中公バックス)とのことである。こうした「道徳」と「政治」を分離し、政治を道徳より優先させる荻生徂徠の考え方を丸山真男は『日本政治思想史』の中で評価した。日本思想に不勉強な私は、それ以上のことを知らない。

荻生徂徠は江戸時代の大変優秀な学者だったといわれるが、今では、日本思想史に関心のある人以外には忘れられた存在だ。その最大の理由は彼の考え方が中国の古い儒教思想の訓詁学をもとに構築されていたためだ。儒教思想そのものがすでにかび臭いものになっている。それに比べて、荻生徂徠の少し前の時代のイギリスに住んだトマス・ホッブスの『リヴァイアサン』は今でも人間・社会・国家を考える生き生きとした本として多くの人々に読まれている。



17 高輪大木戸

評判の占い師に、あなたは2月15日正九つに死ぬ、といわれた伊勢屋の若旦那・伝次郎。貧しい人たちに気前よく施しをして回り、金に糸目を付けず派手に遊びまわって、親が残した資産を使い果たし、すってんてんになったが、あいにく215日になっても死ななかった。乞食同然の姿になってふらふら高輪の大木戸にやって来ると、伝次郎の死を予告した占い師、白井左近を見かけた。あんたのせいで、このざまだと伝次郎がののしる。占い師曰く、人助けをしたおかげで死相が消えた、いまでは80歳まで生きる人相になっている……。落語「ちきり伊勢屋」に高輪大木戸が出てくる。

高輪大木戸は1710年に造られた。東海道の両側に石垣を築いて門を設置した。当初は明け六つ開門、暮れ六つ閉門と、厳格に管理されていたが、江戸時代の後半になって木戸が取り払われた。19世紀初めに描かれた浮世絵には、もはや門はなく石垣だけが描かれている

江戸時代の高輪海浜は月見の名所だったそうである。旧暦26日の月の出を待つ「二十六夜待ち」で深夜まで大勢の人が集まってにぎやかだったという。往時の賑わいが浮世絵になって残っている



現在はご覧のとおり、交通量の激しい第一京浜沿いにかつての大木戸の石垣の東側部分だけが、さびしく残っている。



18 芝浜

落語「芝浜」はとってもよくできた賢い女房の話である。

女房にせかされて、いやいや魚河岸に行った怠け者の魚屋勝五郎が、浜の波打ち際で革の財布を拾った。小判がぎっしり詰まっていた。

拾いものの祝いに大酒を飲んで寝入った。目が覚めたらまた、女房が仕事に行けとせっつく。あの金がある、仕事になんか行かなくていい、と勝五郎が言うと、あの金とは何の金だい、お前さん、夢でも見たんじゃないのか、と女房がいう。

夢を見たんだと、女房にうまく説得された勝五郎、思うところあってか、酒を断ち、せっせと働いて、3年後には表通りに店を出すまでになった。

その年の暮れ、女房が革の財布を勝五郎に見せて、真相を打ち明ける。実は、大金入りの財布は大家と相談のうえ、お上に届けた。その金が持ち主不明ということで、お上から下げ渡されていたのだという。

三田村鳶魚の『鳶魚随筆』中の「芝浜の財布」によると、江戸時代の古書の中に、芝浦の親孝行な魚屋の話が紹介されているそうだ。その魚屋は仕事帰りに、2両の金と証文が入った落し物を見つけ、証文から八王子のお百姓が娘を奉公に出した金だとわかり、八王子までその金を届けに行った。それからしばらくして、魚屋はまた、路上に白紙で包んだ十両の金を見つけた。町役人経由で奉行所に届けたが、結局、持ち主は見つからず、正直で親孝行な魚屋に十両が下げ渡された。

三田村鳶魚はこの話が落語「芝浜」の原型であろうと推測する。落語はお笑いだが、この話には心学流の教訓が込められている、という。「不真面目な人間に僥倖ほど悪いものはない。あのときの金は荒廃に導く資本なのだが、(真剣に働くようになった)今の小判は幸福の加畳だ」



落語で魚屋勝五郎が大金入りの革の財布を拾ったとされる魚河岸は、いまでは東京都港区芝4丁目の本芝公園になっている。公園そのものにはとりたてて説明に及ぶほどの特色はない。江戸時代はここから先が海だったが、今では埋め立てられて、公園の隣を東海道線や新幹線が走っている。さらにその向こうは芝浦ふ頭まで続く埋立地だ。

現代でもあちらこちらに大金の落し物がある。1980年には銀座3丁目の路上に1億円が入った風呂敷包みが転がっていた。1989年には川崎の竹やぶから合計2億円ほどの金が見つかって大騒ぎになった。このほか、全国あちこちのごみ焼却場などで何百万単位のお金が見つかっている。路上で危険な歩きスマホをしながらポケモンとやらを探すより、脚下照顧、しっかり足元を見つめてあるけば、違う物が見つかるかもしれない。

ところで、去年216日付日経新聞によると、2014年に都内での現金の落し物は合計33億円余に上ったそうである。このうち、24億円余りが無事持ち主に戻された。差し引き9億円ほどが拾い主の手に渡った勘定になる。金額次第では税金を払うことになるが、正当な一時所得である。



19 義士切腹の場

落語「井戸の茶碗」はこんな話である。

くず屋が長屋の浪人から二百文で預かった仏像が三百文で売れた。買ったのは細川家の下屋敷で仕えていた家来・高木という侍。高木が仏像を洗うと、底に張ってあった紙がはがれ、中から五十両の金が出てきた。高木は売主に返してやれ、と五十両をくず屋に渡す。しかし、売主の浪人はもはや自分の物ではない、と五十両を受け取らない。

まあまあと間に立った人が、売主二十両、買主二十両、くず屋十両のあっせん案を出す。浪人もこれに応じて、二十両を受け取るかわりにこれを買い主に渡してくれと言って、汚れた茶碗をくず屋に渡す。

 細川の殿様がこの話を聞き、その茶碗が見たいと、高木に言う。目利きの鑑定で茶碗が高麗名器・井戸の茶碗とわかり、殿さまが三百両で譲ってくれという。

くず屋が半分の百五十両を浪人に届けると、浪人曰く、百五十両のみかえりにお渡しできるものは、もはや無い。よろしければ、高木殿に娘を嫁に差し上げ、結納代わりとして金を受け取ろう……。

細川家の下屋敷は江戸・白金にあった。赤穂義士の吉良邸討ち入りのあと、4ヵ所の大名家に身柄を預けられた。細川家の下屋敷は大石内蔵助ら17人の身柄を預かり、切腹の日まで丁重にもてなした。

今では屋敷跡は残っていないが、一部が大石内蔵助ら切腹の場として保存されている。



浅野内匠頭が江戸城内で吉良上野介を切りつけた事件は、芝居や小説ではあれこれ背景説明がされているが、歴史的事実としてはわからないことが多い。

江戸幕府が19世紀前半に作成した徳川家治世の歴史書『徳川実紀』によると、「世に伝ふる所ハ」という書き出しで、以下のようなことが書かれている。吉良上野介は公武の礼節典故を熟知した第一人者だったから、みなは彼に阿順して教えを受けた。それをよいことに上野介は賄賂を貪り、富を築いた。浅野は上野介に賄賂を届けなかったので、上野介は浅野につらく当たった。浅野はこれを恨んだ(吉田豊・佐藤孔亮『古文書で読み解く忠臣蔵』(柏書房、2001年)。

刃傷沙汰の原因が賄賂にあったことを幕府の公式な史書が書き記しているのだが、原因についての書き出しが「世に伝ふる所ハ」と伝聞になっている所を見ると、公文書が残っていなかったのであろう。幕府内できちんとした原因追及がされなかったのかもしれない。

浅野・吉良刃傷事件に先だって、殿中では1627年、1628年、1684年の3回にわたって刃傷事件が発生していた(谷口眞子『赤穂浪士の実像』吉川弘文館、2006年)。徳川幕府にとっては、殿中での刃傷事件もさることながら、江戸市中で徒党を組んでの襲撃事件の処理の方が、頭の痛い問題であった。

(写真と文: 花崎泰雄)