1 根浜海岸

2011311日の東日本大震災から15年がたった。仙台の知人に案内してもらい、岩手の釜石、陸前高田、宮城の南三陸、石巻、名取をまわった。仙台の知人は震災数か月後の被災地見学、5年後の復旧作業中の三陸、そして今回の15年の復旧が一応終わった2026年と、三度にわたってお付き合いをいただいた。感謝。

さすがに15年もたつと、風景としての津波跡地はその風景を変えていた。津波にえぐられた海岸の低地帯は整地や盛り土が終わり、広々とした公園になり、ところどころに震災遺構としての建物が保存され、津波の記憶を後世に伝えるための「伝承館」がたてられていた。

改造された風景は目に見えるが、津波で家族を失った人や、転地を余儀なくされた人の悲しみや無念さは風景の向こうに、遠ざかる。記憶の風化である。

記憶を風化させまいと、311日には各地で催しが行われる。

2026年の15年目の3.11当日は釜石市の根浜海岸の旅館に泊まった。この旅館は震災当日に旅館の客や従業員、通りがかりの人、近所の人が、旅館すぐ裏手の山に駆け上って津波から避難する実写ビデオがTVで繰り返し流されて、有名になった宿である。難を逃れた宿の女将はその後自らが語り部となって、あちこちの集会や、宿の泊り客に当時の模様を話し続けた。

宿では午後2時46分からまず黙祷、宿屋の広間での弦楽三重奏のライブ、夕方には宿のすぐ前の浜辺に「3.11」の明りがともされた。冒頭の写真がその明りである。海は静かだった。

旅館が企画した追悼集会で、宿泊客や近所の人たちが参加した。



2 高田松原

陸前高田市の浜辺には何千本と言われる松林があった。2011年の東日本大震の津波で1本を残してすべてなぎ倒された。一本だけ残った松は「奇跡の一本松」と呼ばれ、津波被害からの立ち直りを目指す人々の希望の象徴となった。しかし、その軌跡の松もほどなく枯れ死し、保存用の加工を受けて震災遺構となった。

浜辺いったいは嵩上げされて整地のあと、高田松原津波復興祈念公園になった。一本松はこの公園の中に今も震災遺構として立っている。



震災の年の2011年のお盆を前に、倒木となった松を薪にして、その皮をはぎ、震災と津波の被害者が鎮魂と復興のメッセージを書き込んで、京都五山の送り火で燃やす計画が持ち上がった。

いい話だな、と感心したが、やがて、放射能汚染を心配する声が高まり、高田松原の松の薪は五山で燃やすアイディアは実現しなかった。

福島の原発事故の後、福島産の農産物は出荷前に放射能の測定を受けるようになったが、それでも消費量は激減した。原発の汚染水を浄化した処理水を海洋放出したことなどを理由に、近隣の国は日本からの水産物輸入に規制をかけた。

誰しも放射能は怖い。

失意の陸前高田市民は地元に残っていた薪を、お盆の迎え火として地元の浜辺で燃やした。だれも放射能のことなど心配しなかった。皮をはいだ松の薪からは京都市などの検査で放射能は検出されなかったのだから。炎を見つめ、万感胸に迫るものがあったことだろう。

このニュースを新聞で読み、私は心に氷の刃を突き刺されたような痛みを感じた。

       

あれから15年。2026年3月の高田松原津波復興祈念公園には津波メモリアルの伝承館がたてられ、3.11追悼式典のリハーサルが行われていた。



3 南三陸町旧防災庁舎

残すべきか、解体すべきかと、議議論を重ねてきた宮城県南三陸町の旧防災対策庁舎は、結局、震災遺構として保存されることになった。



この庁舎が津波にのみこまれて町の職員ら43人が帰らぬ人となった。震災後何度かこの遺構を訪れたが、むき出しの鉄骨だけになった庁舎跡は強く胸をうつものがあった。

残したいという町民の意見と、見るたびにつらい記憶がよみがえるのでいっそ解体してほしいという意見の調整に10年以上がかかった。その間、旧庁舎は宮城県の管理に移された。

鉄骨には新しく塗料が塗られ、こぎれいな印象を与える。遺構の周辺は土盛りされて高くなり、震災復興祈念公園になった。近くに震災伝承館も建てられた。

かつては、見上げていた荒々しい鉄骨か、いまではどちらかかというと、見下ろすような角度にたつ。こじんまりとした風景になった。

(写真と文: 花崎泰雄)