1 千光寺公園の桜

ぼんぼりの明かりに五分咲きの桜が浮きあがり、その向こうに尾道水道の夜景が見えた。



例年どおりならもっと多くの桜が開花し、もっと多くの人でにぎわっているはずだった。今年は寒さが4月初めまでなだれ込んだ。2011年春の尾道・千光寺公園の桜の見頃は遅れているようだ。夜桜見物用のぼんぼりは3月から点灯している。だが、44日の夜、千光寺公園では、ぼんぼりの数が夜桜見物の客の数を上回っていた。夜風が冷たかった。



東日本をおそった大地震と大津波以来、気のせいに違いないのだが、周りの風景が突如、色彩を失ってくすんで見えることがある。救援物資を支援窓口に運び込み、支援の募金にも応じたが、それで気が晴れるわけでもない。私が直接体験したわけではないのに、メディアが伝えた惨状が記憶にこびりついてしまった。

この国は、地震・津波被害に加えて福島第一原発の炉心溶融というダブル・パンチを、顔面とボディーにしたたかにくらってしまった。バブル経済崩以後の長い経済停滞が、この先、さらに底なし沼へと沈み込んでゆくのではないか。そんな不安感がある。原子力発電を推進したのは、ついさきごろまで長期政権を享受してきた自由民主党だ。メディアが伝えるところによると、原子力発電推進のために経済効率を優先し、その陰で実際は安全が値切られていたのに、安全の神話だけが喧伝されていたようである。そのつけを今まとめて払わされている。

東日本大震災の後、エコノミストたちは経済をまわすためにどんどん金を使ってくれと口をそろえて言っている。そこで、気晴らしに瀬戸内の春を楽しもうと車で旅に出たのだが、どうもいけない。中央道のサービス・エリアのレストランでお昼を食べていたら、隣のテーブルに3世代7人の家族連れがやってきた。おじいさんとおばあさんが二番目に小さい子どもをはさんで座り、おとうさんとおかあさんがそれぞれ一番小さい子と一番年長の子の面倒を見ながらご飯を食べていた。あの地震と津波で、本来はこうした春の風景をつくるはずだった東北の家族がどれだけ消えてしまったことだろうか。



尾道に向かう途中、大阪のとあるホテルで一泊した。たまたまそのホテルが、43日に選抜高校野球大会で優勝した東海大相模の選手たちの宿舎になっていた。ホテルのロビーにいた選手にお願いして、「祝優勝」の看板のモデルになってもらった。



さて、本題にかえって、千光寺公園の夜が明けると、花見客が集まりはじめていた。まだつぼみの木の方が多いけれど、なかには満開になっている木もある。やはり桜は満開が一番だ。



2011.4.10





2 閑古鳥鳴く奥道後の桜

尾道から「しまなみ海道」こと西瀬戸自動車道を島づたいに走って松山市の奥道後温泉に着いた。奥道後温泉は、歴史の古い道後温泉と違って、戦後になって開発された山間の新興温泉地だ。奥道後温泉にはホテル奥道後がつくった遊園地があり、そこが花見の名所になっている。

遊園地の桜の花は満開だった。淡いピンクの桜の花を背景に、夕方の淡い光りのなかで白木蓮も咲いていた。満開の桜を脇役にした木蓮の白がことのほか心にしみた。



3.11のあの大震災からこのかた、団体さまの予約が激減しました。それどころか、いらい予約取り消しが続出しています――園内で立ち話をしたホテルの人がそう言った。たしかに桜は豪華に咲いているが、宴会施設に花見客の姿はなかった。花見宴会の収入をあてにしていたホテルにとっては、文字通り「花冷え」であろう。



もともと奥道後温泉は来島どっくグループが大規模温泉ホテルと付属のレジャー施設をつくった1960年代に、新興温泉郷として名前を売り出した。ひところは松山空港から奥道後温泉まで、同じ来島どっくグループのバス会社が定期バスを運行させていた。

この来島どっくグループを率いていたのが企業再建に辣腕をふるった坪内寿夫という人で、本業の造船の他に、海運、ホテルと事業を拡大して羽振りをきかせた。坪内は1970代に左前になっていた地方新聞『新愛媛』を買収し、『日刊新愛媛』と改題して新聞業にも進出した。だが1980年代になって、愛媛県知事と対立するようになり、知事を攻撃する記事を『日刊紙愛媛』に掲載した。これに怒った知事ら坪内と対立するグループが『日刊新愛媛』の取材を拒否する事件に発展した。

イタリアのメディアの帝王ベルルスコーニ首相ほどではないが、坪内は『日刊新愛媛』を自らの政見・経営方針実現のための道具として使い、一方で県知事側は坪内の攻撃に対抗して、『日刊新愛媛』に対して取材拒否という手段に出た。双方はしばらくの間、ジャーナリズム研究者に興味深い研究材料を提供し続けた。だが、おりからの造船不況で来島ドックが経営難におちいり、『日刊新愛媛』は足手まといになって廃刊された。来島どっく自体もいまでは「新来島どっく」と名前が変っている。



「さまざまの事おもひ出す桜かな」(芭蕉)――桜は浮かれるだけでなく、世の中の有為転変や浮沈や盛衰といったことを思い出させる花である。

はて、我が身をふりかえれば、60年代、70年代、80年代とわたしはどこで何をしていたのだろうか。そう思いつつ、いま花の下でうかれる人が見あたらない満開の桜をながめていると、

  限りさへ似たる花なき桜哉

という宗祇独吟何人百韻の発句が思い浮かんでくるのである。

2011.4.12





3 道後公園の夜桜

明治27年に建てられて以来、道後温泉のシンボルになっている道後温泉本館は、威風堂々たる3階建ての和風建築である。

道後温泉本館でなめらかなアルカリ性単純泉につかり、心地よい気分でホテルに帰る途中だった。両肩にカメラをぶらさげた痩せて背の高い男性が声をかけてきた。

「どちらかお見えですか」
「東京です」
「観光ですか」
「ええ」
「地震以来、ここは観光客激減で、いつもと違う春ですよ」



どうやら、道後温泉で観光産業に携わっている人らしかった。
「団体予約のキャンセル続出で、このあたりのホテルはどこもみんな泣いてますよ。みんな横並びでキャンセルすよ。この時期、団体で温泉にやってきて、あそこは自粛しなかったと指を指されるのをおそれているのでしょう。目立ちたくないという気持はわかりますが、ホテルは大変です」
「そんなにひどいですか」
「ひどいです。道後温泉の観光産業全体が手ひどい打撃を受けています」



ホテルで晩ご飯をすませ、部屋の窓から見えていた道後公園の広場へ夜桜見物に出かけた。東京ではいくつかの都立公園に花見宴会自粛が敷かれたが、道後公園の広場(運動グラウンド)の周の桜の木の下にはシートが敷かれ夜桜宴会がちらほらと開かれていた。だが、その数は圧倒的に少なかった。



横並びというよりは、毎日ニュースで東日本大震災関連のニュースと否応なしにつきあっているのだから、どうもこの春は花の下で酒を飲んでヨイヨイという気にはなれないのだろう。



翌朝、ホテルの部屋の窓からながめると道後公園の桜はこのとおり絢爛と満開だった。



2011.4.14





4 こんぴらの桜

金刀比羅宮は金毘羅大権現のお社で、海上交通の安全祈願をするところだ。金毘羅はサンスクリットのクンビーラの音写で、クンビーラはガンジス河の霊魚=鰐のこと。この俗信が仏教にとりこまれ、日本にきてから本地垂迹説によって神道の神になった。熊野権現と同じケースである。

こんぴらのお社は、奥社まで石段が1368段ある。本殿までがその半分強だ。とにかく本殿までは自分の足で登り降りした。日本アイ・ビー・エムの健保組合が運営する「ウェルネス・ウォーキング・クラブ」のサイトによると、金刀比羅宮の石段より、羽黒山の石段の方がさらに多くて2446段あるという。羽黒山に行ったときは、山頂の駐車場に車をとめて、まずこの石段を下り、次に麓から山頂まで登った。羽黒山より石段の数が多く、石段日本一は熊本県美里町の「釈迦院」で3333段だという。こっちはまだ登っていない。




本殿に向かって登る途中、中国語が聞こえてきた。老若男女6-7人のグループがビデオカメラを担いで石段を登っている。ダークスーツを着てネクタイを締めた男性が、年配の中国人男性に日本語で「本殿を正面から撮影しないでください」と言い、年配の中国人がそれを仲間に伝えていた。

ダークスーツの男性にたずねたところ、一行は台湾のテレビ局のスタッフで、東日本大震災と福島第一原発の大事故で、外国からの観光客がすっかり消えてしまった日本にやってきて、「日本加油!」の旅行番組を撮影していると言うことだった。

「うれしいじゃありませんか」

スーツ姿の日本人男性はそう言った。



石段を登途、あちこちで桜が満開になっていた。石段の途中に屋台があって甘酒を売っていた。ベンチに腰を下ろして甘酒をすすっていると、空のカゴをかついて石段を下る二人組が通り過ぎた。時代劇映画のカゴのような担ぎ方では、カゴが斜めになって乗客は大変だ。では、金刀比羅宮の石段カゴはどのようにかつがれるか? あててごらんなさい。



「太った人ほどカゴに乗りたがるんです。担ぐ人は大変ですよ」

石段を下るカゴをながめながら、甘酒屋のおじさんがそういった。

2011.4.17





5 栗林公園のけなげな桜

高松市の栗林公園。園内のあちこちに桜の木があり、花盛りだった。その中で、木の幹の大部分が空洞になっていながら、なんとか立ち続けて、春になると花を咲かせている桜の老木があった。



東日本大震災の津波で瓦礫の原になった三陸海岸の町で、津波にさらわれることなく生き残って白い花を咲かせた梅の木の話をテレビのニュースで見た記憶がよみがえってきた。

ふんばりの美学――つい、こちらの感情を勝手に移入させてしまう。

栗林公園にたどり着いたのは午後5時ごろ。閉園の午後6時半までの1時間半で回れるコースを受付でたずねていたら、

「わたしボランティア・ガイドです。よろしければご案内しましょうか」

来園者を案内し終わってちょうど事務所の帰ってきたところだった。お言葉に甘えて園内を案内していただいた。庭園の説明の合間の世間話で、このボランティア・ガイドさんは看護師を退職後、ボランティアで栗林公園のガイドを始めたと聞かされた。公園が好きで、世界のあちこちに旅をして、いろんな公園を見て歩いているそうだ。



栗林公園の水源は園内の湧水だそうだが、その流れのなかにカキツバタが咲いていていた。湧水が暖かいので早く咲くのだそうだ。



春とはいえ週日の夕方。来園者はちらほら。香川大学で工学を専攻している院生たちが、指導の教員と園内をぶらついていたので、立ち話。なかに女性の院生が一人いた。「がんばってね」と、つれあいが激励した。

2011.4.19





6 屋島の桜

屋島山上からのながめは、桜の枝の向こうに遠く瀬戸内海の島々島が春霞にけむり、値千金である。



山上の遊歩道を歩いていて、廃業した宿泊施設が無惨な姿をさらしていることに気がついた。ここ十数年にわたって屋島を訪れる観光客は減少の一途をたどっている。

香川県の観光客動態報告(2010年公表)によると、瀬戸大橋が開通した1988年に213万人だった屋島への観光客は、1994年には1000万台を切って94万人に落ち込み、2009年には58万人になった。観光客の減少で屋島山麓と山頂を結ぶ屋島ケーブルカーも2004年に営業を休止し、そのまま廃業した。

いまから半世紀以上も前の1955年、高松を出港したのち濃霧の瀬戸内海で衝突事故を起こし、修学旅行の小学生たちが大勢死んだ紫雲丸事件が起きた。あのころの屋島は修学旅行の子どもでにぎわっていた。屋島の衰退は修学旅行の目的地が変わったことも一因になっているらしい。



屋島山上の遊歩道を午前中に歩いたが、観光客はほとんどいなかった。四国遍路のお寺である屋島寺に行くと、白装束のお遍路の団体30人ほどがぞろぞろお寺から出て来るところだった。

屋島へ来る人も高齢化しているのだ。このお遍路さんのなかには子どものころ修学旅行で屋島に来た人がきっといることだろう。

2011.4.24





7 神戸・北野の桜

屋島から鳴門に出て、淡路島へ橋を渡り、淡路から神戸へまた橋を渡った。それまでずっと好天続きだったが、次の日、神戸の街は雨だった。



雨の中を北野の坂道を歩く。京都の北野天満宮は梅の名所だが、神戸の北野天満神社は桜だ。参道の石段の上に満開の桜がかぶさっていた。桜の下をくぐって境内に出ると、目の下に北野異人館群中の目玉である風見鶏の館が見えた。この異人館もまた桜で飾られていた。

北野の異人館群は阪神淡路大震災で痛めつけられたが、修復されて復活した。北野の異人館の一部はいまでは入場料目当ての観光アイテムになり、観光地特有の俗化がますます激しくなっていた。



昔と今を比較して、昔はよかった、とこぼすのは、馬齢をかさねた証拠である。フロインドリーブによっておみやげのチーズケーキを買い、中華街で食事をした。

むかし神戸で仕事をしていたころ、お昼ご飯を食べに行ったレストランだ。そのころ店を取り仕切っていた女性も、いまではそれなりに歳を重ねておばさんになっていたが、あのころの人たちのなかでOさんはいまでもときどき店に来てくれると、写真を見せてくれた。Oさんの懐かしい顔がそこにあった。

2011.4.26

「瀬戸内 春 2011」はこれで終わります。つづいて「続・瀬戸内 春 2011」を近日中に始めます。