1 地中海を抜けて地中海へ

窓のシェイドを上げると、1万メートル下に北極海――多分カラ海、ひょっとしたらバレンツ海かも――が見えた。ちぎれ雲の下に、冷たそうな氷の塊が浮かんでいる。

1万メートルの上空からこれだけの大きさに見えるのだから、氷一塊が1つの小島くらいの大きさなのかもしれない。5月上旬。北極海の解氷期だ。北極圏の早春である。

地球温暖化で北極圏の氷はどんどん融けているそうである。北極の氷が減ると、地球全体の気候のバランスが崩れて、異常気象が頻発するようになると懸念されている。

北極海は北氷洋ともよばれ、太平洋や大西洋と同じ「大洋」と定義する機関もあれば、ユーラシア大陸と北アメリカ大陸とグリーンランドに囲まれた地中海であって、大西洋の一部をなすとする学説もある。

それはともかく、飛行機は無事にフランクフルトに着陸。便を乗り継いでナポリ経由で、まずシチリアに向かった。

今回はシチリアを含む南イタリア見物である。

ローマから北のイタリアには何度か行ったことがあるが、シチリアや南イタリアには足を踏み入れたことがない。「ナポリを見て死ね」(Vedi Napoli, e poi muori.)――もう先があまり長くなくなった身なので、ついこの諺にのせられたのである。行って見ると、ナポリは美しい港湾都市だが、「冥途の土産に」というほどの景色でもない。まだしばらくは年貢をおさめられない。

5月のシチリアは晴れた日は初夏、曇りや雨の日は晩春の気候だった。シチリア見物はパレルモから始めた。時差の関係で早朝に目が覚めてカーテンを開けると日の出だった。



パレルモの宿の窓から結構な地中海の朝焼けがみえた。



2 エトナ山に陽は落ちて

シチリアに向うにあたって、小森谷慶子『シチリア歴史紀行』、ゲーテ『イタリア紀行 中巻』 (岩崎真澄・訳、古典教養文庫)Blue Guide Sicily  3冊のeブックをタブレットに入れた。

しかしながら、これらの3冊を旅の途中で読む機会はなかった。忙しい旅だったからである。

歳をとって自前で旅の準備をしたり、荷物を抱えて交通機関を乗りかえたりするのがおっくうになってきた。それに年金生活者になって旅費が潤沢でなくなったせいもある。ホテルを出たら専用のバスが待っていてくれ、バスに乗ったらその日の目的地まで、居眠りをしていても間違いなく運んでくれる。旅行会社が交通費・宿泊費、食費をギリギリまで値切り倒して組み立てたパック旅行は、たしかに、年寄り向きだ。

半面、朝は7時前に起こされ、朝昼晩、給食のようなメシを食べさせられ、いつも金魚のウンコのようにつながって移動することになる。

「来た! 見た! 買った!」。あらゆる風景がどんどん後ろへ流れ去って行く非情な移動である。あれ見ろ、これ見ろ、とガイドや添乗員に指示されて、持参したeブックを旅の途中で開く余裕もなかった。

ゲーテの『イタリア紀行 中巻』を開いたのは、日本に帰りついてからだ。

そんな旅だったので、タオルミナで2泊したホテルからの眺めた穏やかな夕暮れの風景がいらだつ心を慰めてくれた。

シチリア島東岸のタオルミナという町は、その風光明媚によってヨーロッパでも名高い保養地になっている。

ちなみにタオルミナを訪れた著名人の名前をインターネットであたってご覧なさい。イオニア海の鰯の大群のように次々と名前が浮かんで来るだろう。

Blue Guide Sicily は、トルーマン・カポーテ、セシル・ビートン、ジャン・コクトー、オズバート・シットウェル、サルヴァドル・ダリ、ウィンストン・チャーチル、シベリウス、オーソン・ウェルズ、ジョン・スタインベック、テネシー・ウィリアムズ、リタ・ヘイワース、マレーネ・ディートリッヒ、グレタ・ガルボ、ケーリー・グラント、エリザベス・テーラー、リチャード・バートンの名前を挙げている。

そのきっかけのひとつになったのが、ゲーテの『イタリア紀行』である。ゲーテは保養地タオルミナの恩人である。

タオルミナの近くにはヨーロッパで最大の活火山であるエトナ山がある。目の前にはイオニア海が広がっている。ゲーテは18世紀の後半にシチリアを旅し、タオルミナに滞在した。タオルミナの高台から眺めた風景をゲーテは次のように書いている。



「目路はエトナの長い山背全体に沿って走り、 左方には海岸線がカタニアの 方まで、 否シラクサの方まで延びているのが見える。 そうしてこの遠く連なり広く伸びた光景の尽きる所、 そこは 巨大な煙を吐くエトナの火山である。 しかも物を穏やかにする大気が、この山を実際よりも遠くまた和らげて見せて いるがゆえに、 決して恐ろしい姿ではない」(ゲーテ『イタリア紀行 中巻』)。

タオルミナの高台に建つホテルのテラスから、ゲーテが眺めたと思われる風景をカメラに収めた。

ついでに、タオルミナの夜景も添えておこう。





3 サラセンの城跡

タオルミナの中心部あたりから、さらに高い岩山が2つ見える。左手の岩山には十字架が見える。右手の岩山には城壁のようなものが見える。

右手の岩山の上に立つ「城壁のようなもの」は「ようなもの」ではなく、「カステロ・サラセノ」(サラセンの城)とよばれるれっきとした城塞の跡である。

もともとこの岩山には古代ギリシャのアクロポリスがあった。古代ローマ帝国はこの岩山を砦にした。現存する城塞はまず東ローマ帝国(ビザンチン)が築き、アラブ人がそれを奪取して手を加え、その後、ノルマンが支配、次いでスペインがシチリアを支配下してスペインの砦としたものだという。

古代ギリシャ時代から延々と歴史を積み上げた構造物である。古代ローマ帝国の時代の紀元前2世紀には、この岩山を拠点にして奴隷たちがローマ帝国に反乱を起こした。ローマ帝国軍は岩山を包囲、兵糧の尽きた反乱奴隷軍は人肉で飢えをしのぎながら数ヵ月戦ったと、観光案内書は言う。力尽きて帝国軍の捕虜となった数千人ともいわれる反乱奴隷たちは、ことごとく岩山の上から突き落とされたという。



カステロ・サラセノから見おろす海の眺めは感動的だが、たどり着くには道路から700段を超える階段を上らねばならず、登ったところでは城跡は閉鎖されていると案内書は言う。

地中海に浮かぶシチリア島は紀元前から15世紀ころまでの、地中海が世界そのものであった時代を象徴する場所である。ここは諸民族の交差点だった。

まず、フェニキア人が地中海に舟を乗り出してカルタゴを築いて地中海を支配した。続いて古代ギリシアがシチリアにやって来てシラクサなどに植民都市を築いた。そのあと、古代ローマ帝国が地中海を支配、シチリアはローマ帝国の属州になった。

ローマ帝国はゲルマン人の侵入で崩壊するが、間もなく東ローマ帝国がシチリアを支配するようになる。だがそれも長くは続かなかった。8世紀にイベリア半島に侵入したイスラム教徒のアラブ人が、勢いに乗ってシチリアも支配する。11世紀にはノルマン人がアラブ人を追い払って、シチリアにやって来た。この後もシチリアの支配権はフランス、スペインと引き継がれていった。

こうした地中海の覇権争いの中で、現在のシチリアの日常生活に最も寄与したのがイスラム勢力だった。イスラム教徒は、シチリアに灌漑技術をはじめ、レモンなどの柑橘類やメロン、ピスタチオ、綿花、桑と養蚕、稲やサトウキビをもたらした。シチリアのガイドさんはシチリアにやって来たアラブ人は深い森があるだけのシチリア見て「何もない島だ」と言った、と話してくれた。今日なおシチリアの基幹産業であり続ける農業は、アラブの手土産だったという意味だろう。

『古寺巡礼』で有名な和辻哲郎の著書に『イタリア古寺巡礼』(岩波文庫)がある。和辻がドイツ留学中(1927年から28年にかけて)に3ヵ月にわたって旅したイタリアの印象記である。

和辻はエトナ山とイオニア海の眺めを「山は白く、水は青い。なるほどこれはヨーロッパで一度も見なかった山水明媚な風光である」とほめている。彼はタオルミナでギリシャ人が作りローマ人が改造した古代の劇場を訪れ、海が見える劇場に大いに感心したが、カステロ・サラセノについてはなにも書いていない。



4 アラブの香り

パレルモ郊外のモンレアーレの聖堂を見に行った。



和辻哲郎は『風土』で「地中海は死の海といってよい」と書いた。「黒潮の海は無限に豊饒な海であるが、地中海は痩せ海である」「海の砂漠である」とも書いた。「地中海は古来『交通路』であり、そうしてそれ以上のなにものでもなかった」と和辻はいう。

地中海が死の海であり、海の砂漠であるという表現は、地中海が何よりも交通路であったということを強調するための和辻のレトリックである。

地中海はクロマグロで有名な海である。地中海人は紀元前からマグロを食べて暮らしていた。シチリアの洞窟絵画にはマグロが描かれているし、ギリシアや北アフリカの遺跡には多様な魚類を描いたモザイクの床が残っている。塩漬けのマグロ肉は地中海人の大好物で、コロンブスも好んでこれを食べた。大航海時代にマニラに住んでいたスペイン人は、平戸からの鮮度のよい塩マグロが運ばれて来るのを待ち焦がれていた。鹿児島大学水産学部教授だった田口一夫がそんなことをどこかに書いていたことを思い出した。

9世紀、それまでビザンチン(東ローマ)帝国の領域だったシチリア島に、交通路である地中海を渡って、アラブ人とベルベル人が組んだイスラム勢力が北アフリカから攻め込んできた。イスラム軍は9世の終わりにはシラクサを、10世紀初めにはタオルミナを占領した。

イスラムの脅威に対抗するためにローマ教皇やイタリアの都市国家は用心棒にノルマン人の騎士たちを雇っていた。その傭兵たちが12世紀ごろシチリアに攻め込み、イスラムを追い払った。さらには、傭兵の地位に飽き足らず、ノルマン人たちが自分たちの国家をシチリアに樹立した。

こうして、シチリアにはビザンチンの文化と、アラブの文化、それにノルマンの文化が融合されたアラブ・ノルマン様式とよばれる建築物が残されることになった。

その代表的な建物の1つが、パレルモ郊外のモンレアーレの聖堂である。建物は無骨なノルマン様式。イギリスの古い教会などにみられる良く言えば重厚なつくりで、ロマネスク様式の1つとされている。

聖堂の中に入ると、ビザンチンの金色に輝く壁面装飾やモザイク、イスラムが好んだ尖頭アーチやアラベスク文様で内部が埋め尽くされている。大変にぎやかである。



スペインのコルドバのメスキータほどイスラムの香りは強くないが――それも道理、メスキータとはスペイン語でモスクの意味で、もともとモスクだったものを、レコンキスタの後、キリスト教徒が教会に改修した――モンレアーレの聖堂にもアラブ・ノルマン様式のがもたらすイスラムの香りがそこはかとなく漂っている。





5 陶器の町

夏目漱石の『虞美人草』第12章は「貧乏を十七字に標榜して、馬の糞、馬の尿を得意気に咏ずる発句と云うがある。芭蕉が古池に蛙を飛び込ますと、蕪村が傘を担いで紅葉を見に行く。明治になっては子規と云う男が脊髄病を煩って糸瓜の水を取った。貧に誇る風流は今日に至っても尽きぬ」という調子で始まる。『虞美人草』の主人公の女性に惹かれる小野さんという文学者は貧乏くさい風流を好まない。主人公の女性が小野さんを言葉の上で揶揄するシーンの中で「床に飾ったマジョリカの置時計」が出てくる。漱石の時代、マジョリカの焼き物は洋風にあこがれる日本の豊かな階層の家庭の飾り物だった。



マジョリカ焼はイタリアが有名である。イタリアでは「マヨリカ」と発音される。この陶器は地中海のマジョルカ島からイタリアに伝えられた。マジョルカ島にはスペイン本土から伝えられた。スペインにこの陶器の製作法を伝えたのはアラブである。

百科事典によると、鉛とスズを釉薬に使う方法は、古代オリエントで開発された。それを受け継いだイスラム教徒がスペインにつたえ、イタリアにも広がって地中海の焼き物になった。

シチリア島のカルタジローネはこのマジョリカの陶器で有名な街だ。カルタジローネの人は、カルタジローネは先史時代からギリシャ時代にかけて陶器を焼いていたが、アラブの時代になってマジョリカ焼の技術が導入され、その技法はシチリアからイタリア全土に広がった、と言う。

カルタジローネの町にはサンタ・マリア・デル・モンテ教会に登る階段(ラ・スカラ)があって、旅行者の人気を集めている。寺院の階段では四国の金比羅さんの階段が有名だ。ラ・スカラは階段数では金比羅さんよりも少ないが、階段がマジョリカ焼で装飾されているのが売りだ。

5月はそのラ・スカラを花で飾る花まつりの期間だった。




6 ギリシアの神殿

パレルモから100キロちょっと南に向かうと、シチリア島の南海岸にアグリジェントという町がある。その市街地からすこし山間に入ったところに古代ギリシアの建造物がたくさん残っている。紀元前5世紀ころの建造物とされるコンコルディア神殿をはじめいくつかの建造物の遺跡が保存されている。建造物は石柱だけになっているものが多いが、写真のコンコルディア神殿は建設当時の姿をよくとどめている。



ギリシアのアテネにいまも残っているパルテノン神殿が紀元前5世紀ころの建造なので、ほぼ同じころアグリジェントにも似たような神殿群が建てられた。

パルテノン神殿はキリスト教時代にはマリア聖堂になり、オスマン帝国占領時代にはモスクや火薬庫として使われた。アテネに攻め込んできたヴェネチア軍との戦いで火薬庫が爆発して、神殿は大きな被害を受けた。

2次大戦で連合国軍は、北アフリカで枢軸国の軍に勝利したあと、19437月、ヨーローッパ本土を目指してシチリア島に上陸した。上陸に先駆けて島にいたドイツ軍を爆撃した。その爆撃でアグリジェントの町は壊滅状態になったが、町から少し離れた丘陵地に立つアグリジェントの遺跡群には大きな被害はなかった。

地中海は文明伝播の通路であり、民族間の攻防の戦場でもあった。アグリジェントという町の名前は20世紀になってつけられたもので、それ以前はジルジェンティという名前だった。9世紀に島を支配したアラブ人の呼び名が10世紀以上にわたって使われていた。アラブ支配の前のローマ帝国時代の名前はアグリゲントゥム。

古代ギリシア時代の建造物はシチリア島には多く残っていて、タオルミナの円形劇場の遺跡もその一つである。地中海が平和な海になって、そこで大勢の人が余暇を過ごし、多くの遺跡が世界遺産に登録され、修復が進められている。



7 アルキメデスの町

シチリア島南東部の町・シラクサはアルキメデスの町である。アルキメデスはこの町で生まれ、プトレマイオス朝のアレクサンドリアで学び、シラクサに戻って研究に没頭した。アルキメデスがお風呂の中で金の純度を知る方法を思いついたとき叫んだ言葉は「ユーレカ」「エウレカ」「ユリイカ」などのカタカナで日本語表記されている。もしアルキメデスの浴槽が残っていたらお宝観光アイテムになっていたことだろうにと、シラクサの町でふと思ったが、アルキメデスが生きた時代は紀元前3世紀ころ。残っているわけがあるまい。

シラクサにはギリシア・ローマ時代の遺跡が考古学公園にのこされている。ギリシアの円形劇場とローマ時代の闘技場が有名だ。シラクサのギリシア劇場はタオルミナのものより一回り大きい。石を積み上げて作ったのではなく、石灰岩の斜面を掘り削って完成させた劇場である。



ギリシア劇場にたどりつくと、大勢の作業員が舞台に数多くの柱を立てていた。シラクサのギリシア劇場はまだ現役の劇場で、毎年5月から7月にかけて古典ギリシア劇が上演される。そのための舞台装置作りだった。今年の出し物はエウリピデスの「ヘレネ」「トロイアの女」とアリストパネスの「女の平和」の3本。午後7時から8時にかけて開演、一夜に1本ずつ上演されるとのことだった。

いっぽう、ローマ時代の闘技場(コロセウム)の方は完全な遺跡状態で、冬の間の雨で育った雑草がはびこって、いかにも草むす闘技場遺跡のおもむきだった。





8 モザイクの屋敷跡

古代ローマ帝国の人たちはモザイクが好きだった。遠征先のあちこちの町を築きモザイクの床を残した。例えば、北アフリカ、ドイツのケルンなどのローマ遺跡に保存されている。ギリシアの古代ギリシア遺跡にもローマのモザイクの床を付け加えた。

小森谷慶子『シチリア歴史紀行』 (白水Uブックス) によると、ピアッツァ・アルメリーナというシチリア島の田舎の町の、カサーレという町はずれにローマ時代の屋敷跡があって、そこに残されたにモザイクの床を見るために大勢の観光客が集まってくる。



19世紀に屋敷跡が見つかり、20世紀の中ごろに発掘が完了、その全容が明らかになった。『シチリア歴史紀行』によると、掘り出された屋敷の部屋数は40、延べ3500平方メートのモザイクの床が掘り出された。モザイクの床を作ったのは北アフリカからやってきた職人だったと考えられている。北アフリカのローマ遺跡に残されているモザイクの床と工法が似ているからだ。

北アフリカは地中海の地図を見るとわかるように、それほど遠くない。

数年前までは北アフリカの沿岸から難民や移民がぼろ船に乗ってシチリア島を目指した。手始めにシチリアに上陸して、イタリア半島を北上し、仕事や定住先を探すわけだ。日本のテレビでもシチリアに漂着する難民・移民の姿が盛んに報道された。イタリアに着く前に船が沈没して多くの水死者がでたケースもあった。現代版のオデュッセイアだ。イタリア政府が北アフリカの国に働きかけて、不法な移民船の出航をやめさせるなどしたため、2018年には、難民船のシチリア島到着は少なくなった。島内の難民キャンプの数も減ってシチリアの観光関連業界もほっとしたようである。

カサーレのモザイク屋敷の入り口近くに、観光客用の休憩所があった。中に入ると入り口近くのアイスクリーム・スタンドのお兄さんが、「ウェルカム」とアイスクリームを差し出した。「ウェルカム」に乗せられて、アイスクリームを受けとると、お兄さんはレジを指さしてあそこで金を払えという。

「日本人か?」とお兄さんが聞く。「そうだ」と答えると、「オレはアル〇〇ア」から来たという。アルメニア? アルジェリア? と考えていると、お兄さんはやおらスマートフォンを取り出して、Albaniaと打ち込んで見せた。

アルバニアはアドリア海を挟んでイタリアの対岸だ。したがってアルバニアからイタリアに出稼ぎにやってくる人は多い。アルバニアはEU加盟国ではないが、加盟候補国なので、北アフリカから仕事探しにやってくる人よりも、安全な船で海を渡り、仕事探しもより有利に違いない。



9 ガリバルディ

ガリバルディの名は、通りの名前になったり、広場の名前になったり、劇場や公共施設に冠せられたりして、シチリアの多くの町に残っている。19世紀のイタリア統一運動で千人隊(赤シャツ隊)指揮して活躍したジュセッペ・ガリバルディのことは、高等学校の世界史の授業で聞いた。



軍閥の首領のような印象を受けた記憶があるが、どっこい、したたかな革命運動家であり、ゲリラ戦の専門家だった。

イタリア統一を目指す革命運動に参加して失敗、南米に亡命した。ウルグアイで革命運動に参加し、その過程でゲリラ戦の戦い方を実地に学んだ。19世紀イタリアのチェ・ゲバラ風である。

イタリアに帰国したのち、千人隊を率いて南イタリアとシチリア島から支配者だったブルボン王家を追い払った。シチリア・南イタリアはガリバルディの支配する地になった。住民投票の結果、サルディニア国王の下でイタリア統一を進めるという意見が多数を占めた。ガリバルディは共和制の下でイタリア統一を進めるという理想をあきらめ、サルディニア国王にシチリアと南イタリアの支配権を譲った。そのうえで、自らは地中海の島に隠棲した。こういった浪花節的な行動様式も南イタリアの情緒に合うのであろう。

タオルミナの中心部に49日広場と呼ばれる見晴らしの良い場所がある。海も海岸線もエトナ山も見える。



1860年の49日、シチリア解放を目指すガリバルディが千人隊を伴って上陸したという話が町中に広がった。これは先走りしたうわさで、実際にガリバルディの軍隊がシチリアに上陸したのは1ヵ月後のことだった。

タオルミナの住民たちは、49日の「ガリバルディ来る」のうわさを聞いた喜びを記念して、この広場を「49日」広場と呼ぶようになったとのことである。



10 海

フランス語で海は merLa merというから女性名詞だ。スペイン語では、marEl mar と男性名詞の場合が多いが、ときに la marと女性名詞になることもある。イタリア語では海はmare。男性名詞で il mare となる。

地中海沿いに並んでいながら、海が男性名詞になったり、女性名詞になったり。言葉とは不思議なものだ。

シチリア島巡りを終えて、フェリーでメッシナ海峡をわたった。しばらく団体バスでイタリア南部を走った。ナポリから飛行機に乗るための帰り道だ。

トイレ休憩――イタリアに限らずヨーロッパの国々では公衆トイレ探しに苦労する。心得たツアー・コンダクターは適宜、カフェなどに案内してくれる。

イタリア半島南部の西側とサルディニア島、それにシチリア島に挟まれたティレニア海を眺める小さな村で休憩した。この写真はそのティレニア海。



そこからイタリア半島を横断して――といっても大した距離ではないのだが、半島の東側の海岸の町に出た。すると、こちらの海はアドリア海になる。アドリア海というと20年近く前のスタジオジブリのアニメーション映画『紅の豚』を思い浮かべる絶景の海である。これが、そのアドリア海。



どこか似たような、どこか違うような、海の青。



11 穴居生活

ナポリへ向かう途中、世界遺産に登録されている洞窟住宅があるマテーラへ立ち寄った。

マテーラは渓谷の斜面にできた町である。石灰岩の斜面を穿って古くから洞窟住宅が作られてきた。南イタリアがイスラム勢力に支配されていたころ、イスラム支配をきらったキリスト教の修道僧が穴居生活を始めたと観光案内に書かれている。また、オスマン朝の支配地のバルカンからキリスト教徒が移動してきた。



マテーラの洞窟住宅はつましい生活を営む南イタリアの農民の暮らしの場だったが、20世紀になると、人口が増え、衛生状態が劣悪になり、乳児死亡率が5割に達するようになった。

行政当局が町の周辺部に新しい住宅を建てて住民を移住させた。1万人以上の町民が古い街を出て行った。1900年代の中ごろのことである。無人となった旧市街古い洞窟住宅群は荒れ果て、廃墟になった。

1990年代になってこの古い洞窟住宅群がユネスコの世界文化遺産に登録されると、大勢の旅行客がやってくるようになった。程度の良い洞窟住宅が改装されて、レストランやホテルになった。5つ星の洞窟ホテルもあります、とマテーラのガイドは言った。

マテーラの洞窟は新石器時代から使われてきたといわれている。渓谷を挟んだマテーラの町の対岸の丘のあちこちに洞窟が点々と見える。



穴居生活というと、中国共産党と人民解放軍が長征のすえ、革命の本拠地を定めた延安が東洋では有名である。中国革命の聖地とされる延安は黄土高原地の真ん中あたりにある。

毛沢東もしばらく「ヤオトン」と呼ばれる洞窟住宅に住んだ。ピョートル・ウラジミロフ『延安日記』(サイマル出版会、1973)によると、毛沢東は楊家嶺という村の近くの、川を見下ろす崖の上の洞窟に住んでいた。洞窟への道は銃を持った兵士が警備にあたっていた。毛沢東の洞窟住居は2つの洞窟をつなげたもので、内装は板張り。毛沢東はアメリカ煙草・チェスターフィールドをせわしなく吸い、オランダ産のジンを飲んでいたとウラジミロフは書いている。

中国・延安の毛沢東の洞窟住宅もいずれのぞいてみたいものだ。



12 石積みの家

もう少しデフォルメするとディズニーの子どもアニメに出てきそうな家になる。



南イタリアのアルベロベッロのトゥルッロ(あるいは複数形のトゥルッリ)と呼ばれる石積みの家である。

面白いのは屋根。瓦の代わりに石で葺いてある。日本家屋の屋根は梁と柱で屋根板を支えて、その上に瓦を置く。トゥルッロは石を積み上げて壁にし、そのままドーム式の屋根につなげている。ヨーロッパの古い教会などのドーム式の屋根のプロトタイプだといわれている。

アルベロベッロとその周辺の地域は石灰岩が豊富なところで、昔から石造りの家を建てていた。アルベロベッロには1000以上ものトゥルッリがあるそうだ。案内してくれた現地のガイドさんによると、最近は腕のいい職人が少なくなってきているので、トゥルッリの新築や補修が難しくなっているそうだ。

世界遺産に登録されてから、好事家がトゥルッロを買うようになったので、不動産としては良い値段がついているとのこと。



ところで、石を積み上げただけで、それを支えるものがない屋根がなぜ崩れないのか、私の頭ではわからない。天が落ちてくるのではないかと心配するあまり、ノイローゼになった「杞憂」の逸話が中国にあるが、トゥルッロに住む人は安眠できているのだろうか。

(写真と文: 花崎泰雄)