1 水の都

サンクトペテルブルクはバルト海の一部であるフィンランド湾の東側の一番奥にある。町を流れるネヴァ川がフィンランド湾にそそいでいる。水の都である。バンコクが東洋のヴェニスと言われたように、サンクトペテルブルクは北のヴェニスの異名をとる。

18世紀初頭にピョートル大帝がここに都を建設した。そのさいの名前がドイツ語風のサンクトペテルブルク。1914年に第1次世界大戦がはじまり、ロシアがドイツと敵対した。ドイツ語風の響きのある名前はまずかろうということで、サンクトペテルブルクからペトログラードに改名した。1917年にレーニンが亡命先のスイスから封印列車で帰ってきたときはペテログラードだった。

レーニンの死後、1924年にペテログラードからレニングラードに名前が変えられた。第2次世界大戦でレニングラードはドイツ軍に包囲された。ドイツ軍の包囲は194198日から1944127日までの900日におよんだ。1100グラムちょっとのパンで飢えをしのぎ、暖房の切れた冬にたえた。60万人が飢えと寒さで死んだ。だが、レニングラードの市民と兵はドイツ軍に町を明け渡さなかった。米通信社UPの特派員としてモスクワからレニングラードに入ったハリソン・ソールズベリーが、当時の取材をもとに書きあげた『攻防900日――包囲されたレニングラード』(ハヤカワ・ノンフィクション)は見事なドキュメンタリーで一読に値する。

1991年に名前がレニングラードからサンクトペテルブルクに戻った。1991年の市民投票で改名が決まった。改名に関しては全国的な議論になった。ゴルバチョフは、レニングラードという名前には歴史的な重みがあると改名に反対した。ソルジェニーツィンも、改名はいいけれど何もロマノフ時代の名前に戻すことはなかろう、とサンクトペテルブルクに反対した。だが、スーターリン批判ののちスターリングラードがヴォルゴグラードと呼び名を変えたように、共産党支配の記憶を嫌った市民の気分が勝った。

サンクトペテルブルク滞在中のホテルは「サンクトペテルブルク・ホテル」にした。1960年代のソ連時代に建設された、当時は大型の豪華ホテル「レニングラード・ホテル」だった。19912月に大火事を起こした。今では施設は古び、旅行社の評価で星3つから星4つの間をさまようホテルになっている。部屋数は500もあり、団体客が多く泊まる。団体客が多いので、朝食の時間帯はレストランがマンモス大学のカフェテリアのような状況になる。

したがって、宿泊料金は手頃な設定である。川側の最上階9階の広々とした部屋をもらって、朝晩、ネヴァ川の眺めを満喫堪能した。眺望値千金。



2 巡洋艦オーロラ号

朝ホテルで目を覚まし、全面ガラスの窓のカーテンを開けると対岸に巡洋艦オーロラ号が浮かんでいた。ロシア語ではアヴロラ号と表記される。ローマ神話の暁の女神オーロラのロシア語形である。1900年に建造された7000トンほどの巡洋艦だ。サンクトペテルブルクの中心部のネヴァ川河畔に係留されている。もちろん現役の軍艦ではない。3本煙突の見るからに年代物の船である。巨大なプラモデルのように見える。博物館として保存されている。



オーロラ号は日露戦争の時フィンランド湾を出て、はるばる対馬沖まで遠征してきた。1905年の対馬沖海戦で日本海軍に大敗したバルチック艦隊生き残りの一隻だった。ハワイ・オアフ島の真珠湾には、日本軍の奇襲攻撃を受けて沈没した戦艦アリゾナが沈没状態のままで保存されているが、ソ連とロシアがオーロラ号を保存してきたのは、少々趣旨が異なる。

1917年のボルシェヴィキによる10月革命の117日――変な記述になるが、当時ロシアではロシア正教など東方教会が採用していたユリウス暦を使用していて、ローマ・カトリックなど西方教会が使っていたグレゴリオ暦と日付がことなっていた。グレゴリオ暦の117日はユリウス暦では1025日になる――に、オーロラ号が果たしたとされるシンボリックな行為を記念してこの旧式な巡洋艦は保存されている。

ソ連邦時代の通説では、権力を掌握していたケレンスキー率いるメンシェヴィキから権力を奪取しようとボルシェヴィキが蜂起したのが10月革命で、ペトログラードのメンシェヴィキの本部である冬宮(現在のエルミタージュ美術館)へ攻め込むにあたって、その合図となる号砲(空砲とされている)を放ったのがネヴァ川にいたオーロラ号だった、とされてきた。講談調で語れば、オーロラ号が砲塔を冬宮に向け空砲を放つやそれを合図にボルシェヴィキの革命勢力が冬宮に突入、ここに10月革命が始まった、という名調子になる。

この言説を定説としてきたボルシェヴィキの血筋をひくソ連共産党の一党支配時代が終わり、百花斉放百家争鳴の時代が始まると、ロシア内でもオーロラ号の役割見直し論議が盛んになった。①オーロラ号は冬宮に向けて空砲を撃ったのではなく、ネヴァ川に架かる橋を守るメンシェヴィキの兵に向けて実弾を撃ったのである。②オーロラ号が砲撃してから、ボルシェヴィキの軍勢が冬宮攻撃を始めるまでに2時間が経過していた。③いや、オーロラ号の砲撃以前にボルシェヴィキは冬宮のメンシェヴィキ攻撃を開始していた、などの異説が唱えられるようになった。

なかでも面白いのは次のような説である。モンタージュ理論で有名なエイゼンシュテインが1928年に監督した作品『十月』で、映画をドラマティックに仕上げるため、オーロラ号の号砲一発、それを合図にボルシェヴィキが冬宮突入という筋書きをつくった。その映画が人気となり、オーロラ号の役割が固定化された。ブーアスティン『幻影の時代―マスコミが製造する事実』の具体例のような話だ。

E.H. カーは大著 A History of Soviet Russia の第1The Bolshevik Revolution に「19171025日の早朝ボシェヴィキの軍は行動を開始した。市内の主要な拠点を確保し、臨時政府のメンバーは捕虜になるか逃亡した。午後になってレーニンがペトログラード・ソヴィエトの会議で労働者・農民による革命の勝利を宣言した」と書いている。

オーロラ号が砲撃したのは25日の夜に入ってからの事であり、その後にボルシェヴィキの兵が冬宮に突入したのは夜が更けてからだった。すべてはレーニンの革命勝利宣言のあとの事だった。残務整理だった。

おそらく歴史的事実はそのようだったのであろう。十日の菊ではドラマの力が薄まる。エイゼンシュテインがえいやっと順番を組み替えたフィクションとしての筋書きが歴史的現実としてまかり通るようになった。

日本では司馬遼太郎の明治物の小説を歴史と勘違いするような人々が増えて明治賛歌が声高になり、その風潮を何らかの政治的意図をもって利用する勢力が現れている。胸の高まりを誘うような歴史叙述には往々にして作為がある。迂闊に信じては、危ない、危ない。



3 フィンランド駅


フィンランド駅は宿泊したホテルから意外に近く、バス停で3つ目だった。ホテルのフロントの人は、歩いて10分と言っていた。大柄なロシア人が徒歩10分なら、地理不案内で小柄な日本人の場合、15分くらいになることだろうと判断してバスに乗った。

フィンランド駅――ロシア名ではフィンリャンツキー駅は19174月、ドイツが仕立てたいわゆる封印列車で、レーニンが亡命中の同志らとともに亡命先のスイスから帰国した時、降り立った駅である。



レーニンを乗せた列車はスイスのチューリッヒからドイツを北上。そのあとレーニンらは海を渡ってスカンジナビア半島に行き、半島を北上してスウェーデンからフィンランドに入った。そののち南下してペテログラードに到着した。ドイツ領内通過中はドイツ国民と接触しないことが条件だったので、封印列車と呼ばれるようになった。

1次世界大戦中のことで、ロシアと交戦中のドイツとしては1917年の2月革命の後のロシアにレーニンを送り返して、ロシア国内の政治的混乱を増幅させるのが狙いだった。ユリウス暦で43日(グレゴリオ暦で同月16日)夜、レーニンの一行30余人がヘルシンキ駅に降り立った。

この歴史的な帰国を記念してフィンランド駅前の広場にはレーニンの像が建てられている。駅構内にはフィンランドからレーニンを乗せた列車をけん引してきた古風な蒸気機関車「293」が保存されている。ソ連邦が崩壊したのちもレーニンに対する敬愛の気持は存続しているようである。

 

レーニンが帰国した当時、フィンランド駅にはロシア皇帝が利用する貴賓室があって、皇帝がすでに排除されていた19174月、レーニンはその貴賓室でペトログラードの革命家たちとあいさつを交わした。いまでは駅舎は建てかえられ、皇帝貴賓室も消え、フィンランド駅はヘルシンキとサンクトペテルブルクを結ぶ特急列車の発着駅という平凡な駅になった。プラットホームには屋根が無い。

ドイツが仕立てた列車で帰国したことで、レーニンにはドイツのスパイという風評が付きまとった。

2月革命を主導したメンシェヴィキにはレーニンやトロツキーをドイツに買収されたスパイとみなすものが多かった。ボルシェヴィキがメンシェヴィキから権力を奪取し、ケレンスキー政権を倒したのちになっても、海外に避難したケレンスキーは執拗にレーニンやトロツキーがドイツのスパイだったと著書に書いた、とトロツキーは回顧録『わが生涯』に書いている。

レーニンはロシアに帰りたかったし、ドイツはレーニンをロシアに返したかった。両者の利益が一致して封印列車が仕立てられた。1917年の10月革命でボルシェヴィキはロシア共和国の主導権を掌握し、19183月にドイツとブレスト=リトフスク条約を結んで、第1次世界大戦から離脱した。ドイツ降伏の8ヵ月前である。レーニンもドイツ望むものを手に入れた。はっきりしているのはそこまでで、封印列車にまつわるスパイ論議の真偽の詳しいことは歴史の霧の彼方である。

レーニンは帰国後、ボルシェヴィキの勢力拡大に奔走していたが、7月になってペトログラードで暴動が起き、臨時政府がこれを理由にボルシェヴィキに対する弾圧を始めた。トロツキーは短期間だが投獄され、身の危険を感じたレーニンはフィンランドに身を隠した。

1917109日、レーニンは変装してペトログラードに入った、とE.H.カーは『ボルシェヴィキ革命』に書いている。その翌日の1010日に開かれたボルシェヴィキの会議で、レーニン、トロツキー、スターリンらが武力蜂起路線の採用を決定。武力革命準備のための政治局(ポリトビューロー)を発足させた。レーニンは1917年に2度にわたってフィンランド駅に到着している。1度目は華々しい歓迎を受けて、2度目はこっそりと。

去年(2017年)はロシア革命100周年で、カナダ共産党機関紙が興味深い特集付録を発行した。その特集に変装したレーニンの写真が載っている。ヒゲを剃り落し、かつらをかぶって若々しい姿になって写真におさまっている。

変装したレーニン以外にも興味深い写真や絵がたくさん載っているので、ご覧になるとよい。書かれた絵にはレーニンに寄り添っているのはたいていの場合、スターリンである。トロツキーの姿は見たらない。そういう風に歴史はつくられるのである。

(写真と文: 花崎泰雄)