タリム周縁 mandala + 閑散人 + flores 2005年秋
(閑散人 2005.10.23) 8 三十六団場 オーレル・スタインが有翼天使の絵を見つけた米蘭遺跡を見に行く前の日は、「三十六団場」という風変わりな名の集落にある米蘭賓館という名の貧寒とした宿に泊まった。水もお湯も夕食後数時間しか出ないという時間給水湯の宿である。宿のまわりにはこれといって楽しそうな施設もなかった。しかし、米蘭遺跡が目と鼻の先にあり、足場としては最適な場所だった。午前中の涼しい時間帯に遺跡内を回ることができるのだ。 団場というのは「新疆生産建設兵団の生産現場」という意味である。 新疆生産建設兵団とは、新疆で50年以上の歴史を持つ風変わりな組織である。いってみれば現代の屯田兵集団である。その来歴を手短に紹介すると次のようになる。1954年、中国政府は新疆に駐屯していた17万人の兵隊を生産活動に振り向けるために、生産建設兵団を組織した。まもなく1961年には、イニンで暴動が起きソ連との国境が政情不安になったので、兵団は増強された。中国各地から漢族が集められ、兵団員として新疆に送り込まれた。1960年代半ばには、100万人を超える規模になった。中央政府は1975年に兵団の監督を手放し、自治区政府にゆだねた。しかし、1979年にはソ連がアフガニスタンに侵攻し、自治区ではムスリムの政治活動が活発になった。そこで、中央政府は再び、生産建設兵団のたずなを握ることにした。 現在では、兵団の軍事色は薄まり、主たる目的は、新疆開発、農工業生産に絞られている。しかし、いざというときは、中ソ国境警備、ウィグル族の独立運動やイスラム過激派対策に、民兵として補助的軍事活動することになっている。 兵団のエスニック構成は漢族が88パーセントをしめる。少数民族の目からみると、この組織は、まぎれもなくウィグル自治区を漢化するための先兵あるいは受け皿集団である。兵団は利用されていない沙漠を耕地に変えたと主張するが、地元のウィグル族は水利に恵まれた地域を奪い取ったとみなしている。 新中国が成立した1949年、新疆ではウィグル族が全人口の76パーセントを占め、漢族は7パーセントに過ぎなかった。2002年ウィグル族は新疆の人口の45.6パーセント、漢族が39.8パーセントを占めるにいたった。漢族が新疆最大のエスニック・グループになるのも、それほど先のことではないだろう。 兵団は中央政府と自治区政府の監督下に置かれてはいるが、独自の経済計画をたて活動している。組織は軍隊式で、現在、14師団158連隊で構成されている。農工業従事し、74,300平方キロの土地を持ち、家族を含めて公称250万人が加わり、年間の組織総生産額は269億元である。中国新建集団という巨大な企業グループと、機関紙『兵団新聞』のほか大学も2つ持っている。 兵団の所在地は、旧ソ連邦の構成していたカザフスタンとの国境沿いに多い。次にウルムチの北方、ハミ、コルラ、コルラとチャルクリクを結ぶ国道218号沿いのタリム河流域、ムスリムが多いカシュガル、ホータン近くに多い。第36団がある辺りは甘粛、青海両省とチベット自治区に接し、国境がなく、イスラム教徒のウィグル族が多く住む地区だが、人口が希薄なため兵団は少ない。 新疆生産建設兵団のホームページ『新緑洲』によると、別名「米蘭鎮」の三十六団場の総人口は約9,000人。4200平方キロの土地を持つ。2003年のデータでは、主要農作物は綿花、小麦、トウモロコシ、ナシ、リンゴ、モノ、ブドウ、ナツメなど。年間の穀物生産量は103トン、綿花2,584トン。くわえて、建材工場と石棉鉱を持っている。石綿鉱の年間生産量42,000トン。農工業の年間生産額は1億2,000万元である。水は米蘭河から引いている。(http://www.neooasis.com/) 集落に入ると、総出で綿つみ作業をがんばろう、という横断幕が張られていた。なるほど、生産現場であった。 今日もまた綿摘み日和野良に出る (mandala 2005.10.24) 9 米蘭遺跡 「スタインが掘って、盗んでいったのです」 米蘭地区文物局の案内人が米蘭の廃墟でそう言った。正確に言えば、文物局の人は漢語で話し、それをウィグル語、漢語、日本語を自在に使うウィグル人のガイドさんが、日本語に翻訳してくれたのだ。何を盗んだのか? いわずと知れた、あの有名な有翼天使が描かれた壁画である。 Peter Hopkirk, Foreign Devils on the Silk Road, Oxford, Oxford University Press, 1980によると、1961年に北京・国立図書館発行の印刷の歴史に関する本には、868年に印刷された金剛経は世界最初の印刷された書物であるが、50年以上前にスタインというイギリス人によって盗まれた、と書いてあるそうだ。この金剛経は大英博物館にあり、グーテンベルクの聖書の近くに陳列してある、とホップカークは書いていた。 「盗んだ、と彼(文物局)の人は言ったのですね」と、翻訳してくれたガイドさんに私は念をおした。 「私は正確に翻訳しました。盗んだと言いました」と、ガイドさん。そして、数秒をおいてこう言った。 「案内人のことは言わないのです」 案内人がいなければスタインは米蘭遺跡にたどりつけなかっただろう。土地のボスの了解がなければ、発掘調査に必要な人員・資材を整えることもできなかっただろう。そもそも発掘そのものが不可能だったろう。では、誰が発掘と資料の国外持ち出しを認めたのか? 20世紀のはじめ、東トルキスタンの砂漠を掘り返して回ったスタイン、ペリオ、ルコックたちは、たしかに、現在の考古学調査の倫理からみれば、インディー・ジョーンズ並みのお行儀だった。一方、時代は清朝末期から辛亥革命、軍閥の地方割拠という混乱の時代であった。 当時のシルクロード発掘について、漢族を中心にした中国政府の「泥棒行為」見解、資料を持ち帰った西洋諸国(日本を含む?)の「人類の遺産の救済保存」見解、この2つはよく紹介されるが、タリム盆地周辺のウィグル族の見解が表に出ることはない。探検隊を案内し、探検隊が壁画を切り取って、盗んでかえる手伝いをした人々の孫、ひ孫の世代はどう思っているのだろうか? スタインが東トルキスタンから持ち帰った資料は、有翼天使などの一部がデリーの国立博物館、大部分が大英博物館にある。大英博物館の中央アジア・セクションはスペースが手狭なため、スタイン・コレクションは大部分が箱詰めされたまま眠っている。「中国で掘り出しブルームズベリー(大英博物館があるロンドンの地区)に埋めた」とホップカークは先に紹介した本で皮肉っている。 ホップカークによると、シルクロードから西洋や日本に運ばれた資料は悲惨な運命をたどった。ルコックがベルリンに持ち帰った文物の大分は第2次大戦のベルリン空襲で灰となった。大谷探検隊が日本に持ち帰った資料も、やがてその半分以上が日本の支配下にあった朝鮮半島や満州へ送られた。日本に残った資料の一部は民間のコレクターに流れた。その残りが、現在、東京の国立博物館東洋館にある。 西洋の考古学泥棒がタリム盆地を徘徊し、盗掘が行われ、学術調査で掘り返され、農民は遺跡の日干しレンガを砕いて畑にいれると土壌が改良されると信じて遺跡を鍬で崩した。やがて、世の中が少し落ち着いてくると、観光資源になるとわかった遺跡を公園化にする工事が進められることになった。 米蘭の廃墟は広大な砂漠のなかに日干しレンガの建物の残骸が点在するだけの干からびた空間である。観光客はなぜここに来るのか。オーレル・スタインが有翼天使の壁画を掘り出したというストゥーパのまえで、スタインと天使の残像を無邪気に確かめるためである。 砕け散る骨や胡楊や日に干され (mandala 2005.10.25) 10 沙漠に葦を植える 男と女が沙漠の太陽の下で乾いた砂のなかへ葦を植えていた。チャルクリクを出て、チェルチェンに向かう道端の沙漠のことだった。 1992年に西域南道を車で走り、後に『タクラマカン周遊』(山と渓谷社、1999年)に旅行記を書いた金子民雄氏は、チェルチェンからチャルクリクに向かって走った。その感想は「だいたい広大な沙漠のなかに、道など造ることが横柄なのだ」。道路は南のアルトゥン山脈の雪解け水の洪水で削られ、北からは沙漠の砂が吹き寄せられて道路上に砂山をつくる。金子氏はずいぶん難儀をなさったらしい。 『三蔵法師のシルクロード』(朝日新聞社、1999年)の本文執筆者・高橋徹氏は1998年にここを走っているが、それほど走行に難儀されたような記述はない。このころまでには、道路状況は相当改善されていたのだろう。 2005年は大変楽なドライブだった。四輪駆動車など必要ないほど道路はよくなっていた。一部砂利道もあったが、それでも運転手が80キロ前後でとばすことができた。 その道路端で収穫のあとの畑のようなものを見た。砂漠の中を走る道路沿いに畑? 道路沿いに干草の束のようなものが転がっていた。 この道や砂に抗いだが何処へ 鰻鱈 やがて、それは沙漠の砂止めだとわかった。砂のなかに枯れた葦を埋め込み、砂の移動を防ぐのである。10人ほどの男女が道路沿いの砂の中で葦の埋め込み作業をしていた。 乾燥させて1メートルほどに切った葦を帯状に長く砂の上に撒いておく。葦の真ん中あたりにスコップの先をあてる。スコップを地面と直角になるようにたて、足をスコップにのせる。全体重をかけて葦を砂のなかに押し込む。作業はそれだけの単純なもの。 しかし、道路沿いに10-20メートルの幅で葦を密植し、その砂止帯(業界用語で「草方格」という)を延々数百キロにわたって植え続けるとなると、これは相当な大工事である。しかも、機械を使わずスコップと人間の脚だけでそれをやっていた。葦は3年に1度ほどの間隔で植え替えるそうだ。 機械を導入するよりも、労賃の方が安いのだ。オアシスの朝、道路を数人の男女が大きな箒で掃いていた。掃いていたというより、路上の砂をこっちからあっちへと移動させていた。オアシスの町には想像した以上に自動車と交通信号機が多かった。しかし、道路清掃車を見かけることはなかった。 道端で足棒にして葦踏めど さほどオアシにならぬ悪しき世 (閑散人 2005.10.25) 11 Whose mummies? Whose land? かつての西域南道は敦煌から玉門関あるいは陽関に行き、そこから北緯40度線の少し北側を真西に向かって進み、楼蘭に至っていた。楼蘭からルートは南西に向かい、現在の海頭遺跡(かつてスタインはLK古城とよんだ)から、米蘭に出た。米蘭遺跡から西の遺跡群はおおむね現在の国道315号から北へ(砂漠側へ)50-100キロ寄ったあたりにあり、国道315号と平行している。この遺跡群をつなぐ沙漠のルートが昔の西域南道だった、という説もある。崑崙山脈から流れてくる水量が減ったため、現在のオアシス都市は、昔より南寄りの崑崙山脈側に移ったというわけだ。 米蘭遺跡から有翼天使の壁画を持ち帰ったスタインは、一時期、現在のチャルクリク(若羌)こそが楼蘭王国の跡であるという説を唱えたことがあった。しかし、ヘディンが現在の楼蘭遺跡で「楼蘭」と書かれた資料を発見したことで、スタイン説は否定された。 さて、チャルクリクから国道315号を西に走ると、瓦石峡遺跡の近くを抜け、チェルチェン(且末)に着く。 チェルチェン近くにはチェルチェン古城と呼ばれる遺跡があった。 チェルチェン遺跡はかつてのオアシス都市跡としてよりも、その周辺の土中から掘り出されたミイラであるCherchen Man(チェルチェン人)で有名になった。 チェルチェン遺跡の入り口近くに倉庫風の建物が1つ建てられている。その内部では、発掘された当時のままの姿で、チェルチェン人の墓が公開されている。地下3メートルほどの深さに掘られた墓の中に、チェルチェン人の大人や子どものミイラ十数体があった。仰向けに寝た姿勢で、脚をくの字に立てていた。大人は大柄で、ミイラの中のもっとも大柄なものは身長が2メートルもあった。 チェルチェン人のミイラはウルムチ博物館のミイラ館でも保管・展示されている。このミイラは放射性炭素による年代測定では紀元前11世紀ころの人だったされている。また、同じ地域で発見された他のミイラの中には、紀元前2000年から3000年にさかのぼるものもあったそうだ。 このミイラたちは中国政府に恐怖感を与えた。政治的な意味で……。 ヘザー・プリングル『ミイラはなぜ魅力的か』(早川書房、2002年)はその理由をこう説明している。 ウィグル族はタリム盆地で見つかるミイラに強い関心を持っている。なぜなら、ウィグル族は紀元後にモンゴル西部の平原からタリム盆地に移住してきたという歴史家たちの見解に対し、ウィグル族の指導者は彼らの祖先は紀元前からタリム盆地のオアシスで農業を営んで暮らしてきたと主張しているからだ。そこで、紀元前のミイラと自分たちのつながりに強い関心を持っている。ミイラたちと現代のウィグル族の間になんらかのつながりを求めている。彼らはこの土地の先住民であり、漢族は先住民の土地への侵入者であるという主張を成立させたいと願っている。 もし、タリム盆地で発見されているミイラと現在のウィグル族の間になんらかの人種的はつながりが認められた場合、ウィグル人の民族意識は燃えあがるだろう。 そこで、チェルチェン人などタリム盆地のミイラは、中国政府にとって微妙な問題になった。チェルチェン人は1970年代末から発掘されている。だが、中国政府はDNAテストをしぶったといわれる。万一、チェルチェン人と現代のウィグル人の遺伝子に何らかのつながりが認められた場合、その政治的反響の大きさを恐れたのである。タリム盆地地下に眠るミイラはわれらのもの、ミイラが眠るその土地の底にある油田もわれらのもの、とウィグル族が本気で主張し始めたらどうなるか。それが不安だったのである。 underneath sleep Cherchen mummies let them keep sleeping here do not shake them awake not to leave them set fire on the Tarim oilfields (flores 2005.10.29) 12 沙漠公路 タクラマカン沙漠の中央部あたりをY字型の沙漠横断道路が南北に走っている。沙漠公路である。タリム盆地北辺を走る国道314号のクチャ(庫車)とコルラ(庫尓勒)の中間あたりから、タクラマカン沙漠の真ん中の塔中で沙漠公路は二手に別れる。一方は南東に走りチェルチェン近くで国道315号につながる。いまひとつはまっすぐ南にむかい、ニヤ(民豊)の近くで国道315号に出る。 この沙漠道路はタクラマカン沙漠の中に有望な油田が見つかったため建設された。流砂の中に舗装道路を敷く。それも石油基地に必要な物資を輸送する大型トラックの使用に耐えるような丈夫な路を建設する。砂漠の砂を凝固剤で固めて路盤をつくり、その上をアスファルト舗装した。道路わきには第10回で紹介した草方格で砂止めを作った。 この道路をチェルチェンから塔中を経て二ヤまでドライブした。快適だった。 沙漠公路はオイル・ロードである。急成長を続ける中国経済を今後も持続させるためには、エネルギーの安定供給が必要だ。つまり石油の確保である。中国経済の規模が小さかったころ、中国は原油の輸出国だった。1990年代の中ごろから中国は原油の輸入国となった。2010年には原油の半分を海外に依存するようになるといわれている。中国の石油外交は熱を帯び、すでにアフリカの油田をめぐって中国は米国と激しい獲得争いを繰りひろげている。 一方で、国内の油田確保も重要な課題になっている。 中国最大の油田である黒龍江省の大慶油田は、国内の年間生産量の3分の1を占める大油田だが、最近では産油量が頭打だ。 中国政府は新疆に期待をかける。タリム、ジュンガル、トゥルファン・ハミの三大油田地帯を持つ新疆は、中国では第4位の石油供給地だ。原油生産量は年110万トンのペースで上昇している。伸び率は国内第1位。戦略的な地域である。その中で、埋蔵量ではタクラマカン沙漠のあるタリム盆地が最有力視されている。 とはいえ、話はいつまでもバラ色というわけにはいかない。最近の報道では、タリム盆地の原油は生産コストが高くつき、エネルギー確保を目指す中国政府の政策ベースではともかく、商売が基本の民間ベースでは割に合わないとして、外国資本が新規参入を手控えている。中国政府の期待通りに進んでいない面もあるようだ。 油田あってこそできた道路である。油田が消えれば、ふたたび沙漠の砂の中に埋もれることも、また、ありうるのだろう。 一筋に沙漠貫く蜃気楼 (mandala 2005.10.29) 13 塔中 沙漠公路が南へ向かって二手に分かれる分岐点が塔中である。塔中は新しく作られた地名だ。タクラマカンを漢字で書くと塔克拉満瑪干となる。またタリムは塔里木である。タクラマカン沙漠あるいはタリム盆地の真ん中という意味でつけた、と聞いた。塔中には給油所がありにぎわっていた。給油所の周辺にはレストラン街もできていた。それほどシャレたものではなかったが……。 沙漠の真ん中で石油を汲み出している塔中油田は、塔中ジャンクションから右手の道を南下してしばらくのところにある。 沙漠公路のドライブはが楽しい。飽き飽きするほど沙漠をみることができる。砂丘に描かれた風紋が美しい。 チェルチェン付近から最も新しい沙漠公路を北に塔中へ向かい、塔中で反転してニヤに向かう沙漠公路を走った。 道路左右にタマリスクが植えられていた。給水のための黒いゴムホースが延々と敷かれていた。砂止めのために植樹しているのだ。ゴムホースの穴から一定時間ごとに出る水が植物を養う。 この給水のために道路沿い4キロごとに給水所を建てている。給水所では地下水を汲みあげて、パイプに流している。水が流れているかどうかを常時確認するために、給水所に職員を駐在させている。タクラマカン沙漠の真ん中の道路沿いで、パイプを点検しながら歩いている職員の姿が見えた。 石油が出たせいで、小規模ながらタクラマカン沙漠が生活の場へと変わっている。 わが道に千代に八千代に散水す グリーンベルトが砂に勝つまで (閑散人 2005.10.30) 14 ニヤ 国道315号沿いの現代のオアシス町ニヤ(民豊)は人口3万の物静かな町である。 オアシスや育つ若葉のかぐわしく (鰻鱈) オーレル・スタインが1901年に大量のカロシュティー文書を収集したニヤ遺跡は、ここから100キロ以上も離れている。ニヤ遺跡を訪れるには、いまでも砂漠専用車、宿泊用テント、ガイド、キャラバン要員などが必要になる。 ニヤ遺跡についてはスタインの著書『砂に埋もれたホータンの廃墟』(白水社、1999年)や『中央アジア踏査記』(白水社、1966年)に詳しい。『中央アジア踏査記』によると、スタインの一行はニヤ遺跡で悪臭に耐えながら発掘をした。納屋か家畜小屋が建っていたらしい地面を掘った。「17世紀間も埋もれていながらいまなお発散する痛烈な臭気は、強い東風にあおられて二重に耐えがたいものになっていた。細かいほこりや、死んだ微生物や何かが、目や喉や鼻にはいり込んだからだ」とスタインは書いた。 同じ本の中でスタインは1907年に米蘭の廃墟を発掘したときの臭いについても書いている。米蘭の廃墟の中の要塞を発掘したときの模様である。この要塞は一時期チベットの駐屯兵が暮らしていた。想像もつかないような汚物の中からチベット語でかかれた木片や紙の文書が出てきたという。当時のチベット兵はごみに無関心だったらしい。住んでいる部屋の中にごみを捨て、ごみが居室を埋めると別の部屋に移った。ごみは天井までの高さに達していたという。 そこから先はスタインの「鼻自慢」だ。古代のごみ捨て場を発掘することにかけては豊富な経験を持ち、ごみ捨て場の臭いをかぎ分けることができる、とスタインは自慢げに書いている。スタインによれば、「その純然たる汚物の濃度と、歳月を経て変わらぬ臭気の強さから、チベットの兵士らの豊かな『廃棄物』を、常に第一位に押したいと思う」。スタインは1908年、ホータンのマザール・ターグの丘で要塞跡を発掘したとき、チベット兵が駐屯した場所であると言い当てた。「まだはっきりした考古学上の証拠物が出ないのに、ごみのにおいでかぎあてたのだ」。スタイン、得意満面の回想である。 タリム盆地の周縁をめぐるドライブでは公衆トイレ、道路端の飯屋のトイレ、青空トイレ、この3つのお世話になった。青空トイレは実にすがすがしい。あとの2種類のトイレに入ったときは、たいてい、上記のスタインの記述を思い出したものだ。スタインがかいだ悪臭と、いま私がかいでいる悪臭では、どちらがより強烈なのだろうか、と。 2008年は北京オリンピックだ。北京市は、汚く、臭く、そのうえ仕切りがなく隣人同士お互いがまる見えのオープンな公厠(コンチェ、公共トイレ)の改善に直面している。2004年から8,000万元をかけて北京市内の公共トイレを改善する、という記事を読んだことがある。 東風吹かばみやび運べよ九重の 雲上人の薫る公厠(コンチェ) (閑散人 2005.10.30) 15 ブールヴァール 西域南道で砂丘の脇のタマリスク、道路端の胡楊、砂ナツメなど極度の乾燥にも耐える強い木をたくさん見た。必死に生きているという姿が眺めている方の緊張感をよび起こした。 そうした沙漠の風景のなかで、ほっとする気分になれるのは、なんといってもオアシスのポプラ並木だろう。 沙漠の道路を車で走っていると、果てしない砂の向こうに小さな黒い点が見えてくる。近づくにつれて、その点は小さな緑の広がりになってゆく。オアシスである。 オアシスには立派なポプラ並木がある。ポプラの木は道路沿いにたいてい5列で植えられている。ポプラの列を重ねておかないと砂防林として十分な役目が果たせないからだ。 このポプラ並木をトコトコ進むロバの荷車という構図が観光客の固定観念である。 ニヤからホータン(和田)の中間にあるケリヤ(于田)の近くの小さな集落になかなか心地よいブールヴァールがあった。その並木道をオアシスのおばあさん、おばさん、娘さん、おじいさん、おじさん、お兄さん、子どもが、歩いて1軒の家にあつまっていた。 村の結婚式だった。ウィグル人のガイドさんが「珍しいから見ていきましょう」と、その家の主に見学を申し込んでくれた。結局、観光客たちは飛び入りの珍客として、結婚式の場に招き入れられ、スイカとポロで丁重なもてなしを受けることになった。 なに語るそぞろ歩きの並木道 木洩れ日やポプラ並木の立ち話 (mandala) 1922年から24年にかけて、カシュガル駐在のイギリス総領事だったスクラインの著書、C. P. Skrine, Chinese Central Asia, London,Methuen, 1926によると、1920年代の西域南道では、ケリヤはcul de sac(袋小路)でUltima Thule(地の果て)だった。カシュガルからケリヤまでは人の流れがあったが、それはケリヤでぱたりと途絶えてしまっていた。ケリヤから東は、ニヤ、チェルチェン、チャルクリクのオアシスを例外として、ケリヤから敦煌までの860マイルは沙漠以外に何もなかった。ケリヤから敦煌までの旅は、特にチャルクリクから敦煌までの450マイルの旅は、飲料水を氷の形で持ち運びできる冬季にだけ可能であった。 ケリヤをすぎてホータンに向かう国道315号沿いの荒地の中に標識が見えた。「光ケーブルがここを通っている。3メートル以内土取り厳禁」と標識に書かれていた。 観光客はタリム盆地に来て、ヘディンだの、スタインだの、ルコックだの、大谷探検隊だのと、古本が醸し出す古臭いファンタジーの沙漠を、いまだにさまよっている。しかし、沙漠公路がタクラマカンを貫き、タリム盆地の周辺には、デジタル・マイクロウェーブ幹線、光ケーブル幹線が張り巡らされた。通信ケーブルは蘭州を経て西安にいたっている。デジタル通信網、マルチメディア通信網が出来上がり、IP広帯域ネットワークの建設に取りかかっている。移動通信ネットワークは新疆ウィグル自治区全域をカバーしている。 旅人を運ぶ車のドライバーは沙漠の向こうの本社の指示を携帯電話で受けていた。 (2005.10.31) 16 デフォルマシオン/弟よ ホータン市の中心部にある広場に、あごひげをはやした年配のウィグル人男性と毛沢東が親しげに語り合っている銅像がたっていた。その銅像の台座に「ホータン市は新疆ウィグル自治区の50周年をお祝いする」と書かれた大看板が取りつけてあった。1955年10月1日、新疆ウィグル自治区政府が成立した。それから半世紀がたったのである。 新疆ウィグル自治区が成立してしばらくたったころ、あごひげの老人(申し訳ないが名前を忘れてしまった)が「昔に比べるとずいぶん暮らしが楽になった」と地域の指導者に話したところ、「毛沢東のおかげだよ」という答えが返ってきた。 老人は、それでは毛沢東とかいう人にお礼を言わねばなるまい、と言った。その話が地区の共産党委員会、ウルムチにある新疆ウィグル自治区党委員会、北京の党中央へとのぼっていった。老人はうやうやしく北京に招かれ、毛沢東と会見することになった。 ホータン市の銅像は、以上のような政治的おとぎ話を形にしたものである。異民族間の相互理解と和解、相互協力と尊敬などをうたいあげる政治的メッセージである。同時に、政治的メッセージを臆面もなく町に飾るということは、とりもなおさず、現実はそれほど楽観的ではないということでもある。 listen! if those above lead those below and those below follow those above then brother will not war with brother (flores) この銅像を見た数日後、街道の飯屋で毛沢東と白いあごひげの老人の会見写真が目にとまった。 この写真と銅像を見比べることで、ホータンの銅像に込められた、いま1つのメッセージがはっきりとしてきた。 写真で見る限り、毛沢東とウィグル人の老人は、背丈ではほとんど変わりない。人民服の毛沢東はやや肥満気味で胴回りが太い。ウィグル人は引き締まったスリムな体型のようである。 一方、ホータンの銅像では、毛沢東とウィグル人の体の大きさがデフォルメされている。毛沢東は大きく、ウィグル人は小さく。毛沢東がウィグルの老人を上からやさしく見下ろしているように作られている。 これが漢民族中心の共産党指導部がウィグル民族に伝えようとしたメッセージだった。 ウィグル人にとってこの銅像は、太平洋戦争後、占領軍が撮影し配信した1枚の写真が当時の日本人に与えた衝撃と同じような、みじめさ、敗北感、いらだち、憤激を感じさせるものだろう。 (2005.10.31) 17 夏の離宮 ホータン(和田)はそのむかし于闐国とよばれていた。そのころの王国の夏の離宮が、ホータンの南の郊外の白玉河沿いにある。ホータンの北方にはかの有名なダンダン・ウイリクがあるが、そう簡単に行けるところではない。そこで、一般観光客はてっとりばやい于闐国の夏の離宮(現在ではマリクワット遺跡とよばれている)へ出かけ、旅情を満喫することになる。 夏の離宮へ行くには、ホータン市内から自動車でマリクワット遺跡近くのウィグル人の集落、マリクワット村まで行く。そこから村人が運行するロバの荷車に乗ることになる。遺跡まで歩いていけない距離ではないが、村人のロバ車に乗るのが仁義になっている。 ロバ車はマリクワット村の女たちが御者をつとめる。御者などいなくてもロバは勝手に遺跡のほうへ歩いてゆくので、女たちやその子どもたちはロバ車そっちのけで観光客にお土産を売っている。 御者の中にでっかいおなかの女の人がいた。ウィグル人のガイドが心配して聞いたところ、あと数週間で出産予定日だという話だった。途上国で観光客に群がるお土産売りはいろいろ見たが、臨月の御者にはさすがにたまげた。 砂をかむ貧の轍の深さかな 赤貧や鞭くれてやる驢馬の尻 (鰻鱈) 中国では都市は農村より豊かである。都市と農村の所得格差は開く一方で、2004年には3.2倍になったそうだ。都市部には漢族が多く、少数民族はたいてい農村に住んでいる。中国では高所得層の上位20パーセントが消費の半分をしめ、低所得層の下位20パーセントは5パーセント以下である。中国のジニ係数は2000年に0.458となり、所得分配の不平等はアメリカ並みの水準に悪化した。日本やカナダ、西欧諸国より不平等がひどい。貧富の差が激しいといわれるフィリピンの水準に近い。開放経済が作り出した陰の部分である。国連開発計画の資料によると、1980年の中国の1人当たりGDPは世界129ヵ国中124位だったが、人間開発指数(HDI)は113ヵ国中74位だった。GDPに比べ医療・教育などの行政サービスは、相対的にではあるが充実していた。2002年になると、1人当たりGDPが161ヵ国中90位と上昇したが、HDIは177ヵ国中94位にとどまった。 タリム盆地では石油や天然ガスが新しい雇用を生んでいる。だが、そこで働く人のほとんどが漢族である。ウィグル族には漢語に不自由な人や、必要な技術をもたない人がいる。したがってウィグル族はタリムの石油がもたらす恩恵を受ける機会が少ない。 さらに、高度成長と中国流の市場経済全盛の現在、いま1つの陰の部分である腐敗が横行している。ホータン地区のある貧しい村に国連が170万ドルを援助したことがあった。その援助金が北京、ウルムチを経由して、地元の貧困援助の窓口に届いたときは、14万5,000ドルに目減りしていた。だが、その残金も地元役人が横領した。貧しい農村には何も届かなかった。 以上の話は、ニューヨーク在住の台湾系ジャーナリストが、ウルムチからトルコのイスタンブールに脱出したウィグル人の元援助関係者から1999年ごろ聞いた話を、Taipei Timesに寄稿したものである。一般的に言えば、それなりに割引して読むべきものであろう。 とはいえ、東南アジアの政治観察をメシの種にしているこのエッセイの筆者には、このての援助抜き取りの話はフィールドでよく聞かされたおなじみの話題である。また、最近の中国では腐敗のすさまじい横行が報道されている。1990年代後半の3年間のGDP成長率は年平均9.7パーセントだったが、腐敗関連の事件で摘発された課長クラス以上の官僚の増加率は年平均14.6パーセントで、GDP増加率を上回った。というわけで、「反中国宣伝」と頭から否定する気にもなれないのである。 (2005.11.2) 18 白玉河 ホータンは中国人が珍重する軟玉の産地である。ホータンの玉がさかんに長安に運ばれるようになったのは、漢の武帝の西域遠征のころからだといわれている。敦煌西の玉門関はこのころにつくられた。 ホータンの街中には玉を売る店が多い。そうした店の1軒に入った。壁に額がかけてあった。「観海聴濤」と大書してあった。中央アジアの砂漠地帯で、ふと潮騒が響くような錯覚におそわれた。だが、ここにあるのは沙の海だけである。 崑崙の雪解け水が川となってオアシスを潤してきた。その雪解け水がホータン名物のイチジク、クルミなどを育てた。ホータンの農民の朝ごはんの定番はスイカとナンだそうだ。そうした質素な食生活でも元気に暮らせるのは、ひとえに崑崙の水のおかげだと彼らは考えている。崑崙から流れてくる川の水は「生きた水」、井戸や池からくみ出した水は「死んだ水」と彼らはいう。 崑崙からホータンへと流れ下ってくる川は2本。ホータン市の西側にカラカーシー河(墨玉河)が流れ、東側にはユルンカーシー河(白玉河)が流れる。この2本の川はタクラマカン砂漠に流れ込み、やがて合流してホータン河になる。白玉河と墨玉河の河床から玉がとれる。 かつては河を歩いて玉を拾っていたが、さすがに、何千年も拾い続けると玉が消えてしまった。そこで、資本を持つ人々が河にショベルカーを持ち込み始めたのである。 白玉河では、ショベルカーがうなりをあげて河床を掘り返していた。流れる水は生きた水。生きた水を運ぶ川を無残なまでに壊しつつ、たしかに、中国経済は荒々しく躍動している。 玉を掘れ河床破ってわれ先に あとは野となれボタ山となれ (閑散人 2005.11.3) 19 ムスリム泥酔 ホータンのバザール近く、モスクに向かい合った歩道で、年配のウィグル人男性がへべれけになって眠っていた。 李賀の詩の一節、 況してや是れ青春日将に暮れんとす 桃花乱落して紅雨の如し 君に勧む終日酩酊して酔え の風情からははるかに遠いものの、憂き世を忘れて気持ちよさそうに眠っていた。 なぜ飲んだ? 聞いてどうするおたんちん (鰻鱈) ムスリムは酒を飲まない。ウィグルはムスリムである。ゆえに、ウィグルは酒を飲まない。そのような粗雑な三段論法はウィグルの男には成立しない。ムスリムは酒を飲むこと以外にも、博打をすること、豚肉を食べることもしないとされている。しかしながらウィグルの男が守っているタブーは豚肉を食べないことだけである(ウィグル人も人目につかないところでは豚肉を食っている、と馬鹿にする漢人もいる)。 コーランは飲酒を禁じているか? はっきりと「お酒飲むな」といっている文章はないのだそうだ。むしろ「永遠の少年たちが……酒杯と、水差しと、泉から汲んだ満杯の杯などを献上して回る。頭痛を訴えることもなく、泥酔することもない。彼らは、好みどおりの果物を選び、鶏肉も望みどおりのものを得る。目の大きな色白の乙女もいる。彼女たちは、まるで秘められた真珠のよう」(『コーラン』世界の名著・中央公論社から)のように飲酒を許容している。 モスクの前のウィグル人はそんな夢でも見ていたのだろうか。 ウィグルの男はなぜ深酒をするのか? ウルムチのような大都会では漢族の人口がウィグル族を上回っている。政治・行政・経済で圧倒的な力を行使しているのは漢族だ。漢族はウィグル族に次のようなレッテルを張る。ウィグル族は古臭い伝統やイスラム教にしがみつき、後進的で封建的、怠け者のうえに、社会的・政治的には未熟だ。(ただし、漢族の男は美人の評判が高いウィグルの娘にあこがれるが、娘を漢人と結婚させたがらないウィグル人の親に怒っている。ウィグルの娘はウィグルの男より漢族の男と結婚したがっているのに。だって、漢人の方が知的で、深酒もせず、妻を殴らないのだから、というわけだ。一方、かげでは漢族の男はウィグルの女は尻軽だ、とささやいてもいる)。 都会に住むウィグル族はそうした漢族の誇張された偏見の中で生活している。偏見にまったく根拠がないわけではない点がウィグル族にはつらい。権力をもつ側の漢族に誇張された偏見を修正しようとする気がないのは、もっとつらい。そのことで、ウィグル人の自尊心は傷つけられ、フラストレーションと怒りがたまる。 ウィグル族男性のアルコール消費量はどんどん増えているそうだ。消費量をおしあげているのは、実は農民ではなく、都市部で働くホワイトカラーや大学生である。彼らは毎日、漢人と接触することで心を傷つけられ、夕暮れとともに酒を飲んで荒れる。その代表的な例が政府機関で働くウィグル人のお役人だといわれている。以上は、Justin Jon Rudelson, Oasis Identities:Uyghur Nationalism Along China’s Silk Road, New York, Columbia University Press, 1997からの受け売り。 (2005.11.3) 20 香妃墓 3人の女の物語がある。 まず、香妃。 台北の故宮博物院にあるカスティリオーネ(郎世寧)作「香妃戎装像」は甲冑で身をかためた美女図である。この絵のモデルである香妃は清の乾隆帝の後宮にいた側室の1人で、容姿端麗、心地よい体臭を発するウィグル人の女性であった、と言い伝えられている。 この女性は、清朝に対して反乱を起こしたカシュガルのホージャ家の出で、夫が清の軍隊に殺された後、生け捕りにされて北京に運ばれ、乾隆帝の側室にされた。しかし、乾隆帝の意に従おうとしなかった。それをとがめた乾隆帝の母親に自決を命じられ、首を吊って死んだ。乾隆帝は遺骸を3年がかりでカシュガルに送り返した。香妃の棺はカシュガルのホージャ家の霊廟の中に安置されている。 次に、容妃。 清朝の公式記録によると、乾隆帝の側室に香妃という名の女性はいなかった。容妃という乾隆帝の側室がいて、ウィグル人だった。容妃はホージャ家につながる一族の出だが、ホージャ家の反乱のときは、彼女の家族は清の軍に加担した。反乱鎮圧後、論功行賞で一族は北京によばれ、カシュガルには帰らず、北京に定住した。乾隆帝がウィグル人の容妃を後宮に入れたのは、ウィグル族との和解のジェスチャーである。ということで、容妃は乾隆帝の配慮もあって、ハッピーな暮らしを続け、54歳まで生きた。北京市の東、河北省遵化市の清東陵に墓がある。 最後に王昭君。 匈奴内で後継争いがおきたため、都合で漢に接近した呼韓邪単于に、漢の元帝は宮女王昭君を与えた。中国4大美人の1人、選ばれて匈奴の王に贈られた漢代の王昭君の物語は、後世、元の馬致遠が戯曲『漢宮秋』を書いて以来、政略結婚の代表的悲劇とされてきた。とはいうものの、『漢書匈奴伝』には、王昭君は匈奴の地で、呼韓邪の間とに男の子1人を生み、呼韓邪の死後、彼の正妻の長男と再婚して2人の女の子を生んだ、とそっけない記録が残っている。現代では、かつての匈奴の地、中国・内モンゴル自治区のフフホトに王昭君の墓がつくられ、彼女が呼韓邪と馬上で並んでいる像もある。漢族と匈奴の異民族間の交流と平和に尽くした女性というイメージ作りがさかんに行われている。 さて、佐口透『新疆ムスリム研究』(吉川弘文館、1995年)は、香妃墓についてさまざまな過去の文献にあたって詳細な検討を加えている。それによると祥妃というウィグル女性も乾隆帝の後宮にいたという。彼女が香妃のことであるという説も紹介されている。どうも、はっきりとこれが史実だというものはうかびあがってこない。香妃、容妃、祥妃、その他北京の宮廷にあがったウィグル女性のはかなりいたのだろう。それらの女性をめぐるお話が香妃と容妃の2タイプの女性像に収斂されたらしい。 香妃と容妃はダブル・イメージである。どちらが実像でどちらが虚像か? カシュガルのウィグル族にうけているのは圧倒的に香妃伝説の方である。大勢がそう信じたいと願えば、それは史実として機能する。漢族側は、容妃をモデルにして、王昭君に用いたと同じ民族史の修正解釈をまだ打ち出していない。 窓ごとに違う異郷の眺めかな (mandala 2005.11.5) 21 グレート・ゲーム カシュガル市のセマン(色満)通りに、チニバグ・ホテルとセマン・ホテルという由緒あるホテルがある。外国人観光客がよく利用するホテルでもある。 チニバグ・ホテルは20世紀の前半にイギリスがカシュガルに設置した総領事館の跡地に建てられた。チニバグとはChinese gardenの意味で、総領事館名物果樹園だった。この果樹園の跡地にホテルが建てられた。旧総領事館の建物も残っていて、ホテルのレストランに使われている。 セマン・ホテルは同じころの(ロシアおよびソ連)総領事館跡地に建てられたホテルである。こちらも総領事館の建物が保存されている。 タリム盆地は天山山脈、パミール高原、崑崙山脈に囲まれている。出入りが極めて難しい。20世紀初頭、地の果てだったカシュガルに、なぜ英露は総領事館を置いたのだろうか。 アフガニスタンのワハン回廊はイギリスとロシアというかつての2つの帝国が正面衝突しないように設けた緩衝地帯の痕跡だ。ロシア帝国は中央アジアをその版図に組み入れながら南下していた。イギリスは植民地インドの利権を守るためにロシアの南下を食い止める工作を続けた。 イギリスは19世紀から20世紀かけて3度もアフガニスタンと戦争をしている。ブレジネフ時代のソ連は1979年にアフガニスタンに侵攻、ソ連解体の一因をつくった。グレート・ゲームについては、ピーター・ホップカーク『ザ・グレート・ゲーム』(中央公論社、1992年:Peter Hopkirk, The Great Game, 1990の抄訳)が詳しい。「グレート・ゲーム」という用語は、植民地インドの軍人たちが口にしていたが、ルディヤード・キップリングが『キム』の中で使い、その用法が定着した。蛇足までに。 そうした英露の帝国主義的野望のための情報収集拠点として、タリム盆地の西端のカシュガルに総領事館が設けられた。駐カシュガル英国総領事館の初代総領事はジョージ・マッカートニーという、英国人の父と中国人の母を持つ人物で、28年間も総領事を務めた。詳しい話は、C. P. Skrine and Pamela Nightingale, Macartney at Kashgar, London, Methuen, 1973あるいはマッカートニーの妻の回想録Lady Macartney, An English Lady in Chinese Turkistan, (reprint), Hong Kong, Oxford University Press, 1985にゆずる。 チニバグには20世紀初頭、タリム盆地の探検にやっていてきたスタイン、ルコックらをはじめ大谷探検隊の橘瑞超らも客として迎えられた。ロシアと英国2つの領事館は互いにタリム盆地のオアシスに情報網を築きあげ、タリム盆地にやってくる外国人や、清国および中華民国の動静、あるいはお互いの領事館同士の動きを見張り続けた。 今では中国政府がタリム盆地で、東トルキスタン分離運動の動きを監視している。日本の外務省の海外安全情報によると、「中国におけるテロ事件は主として新疆ウイグル自治区内で発生しています。同自治区では、ウイグル族を主体とする少数民族の一部がいくつかの地下組織を結成し、同自治区全域を領土とするイスラム国家『東トルキスタン』の建設を目的に民族独立運動を行っているといわれています。特に、1990年以降、同自治区では無差別殺傷事件、地元の政府・共産党要人の暗殺事件、行政府庁舎への襲撃などの凶悪事件が頻発するようになったといわれており、治安当局はこれらの組織を厳しく取り締まっています」ということである。ふらっとやってくる観光客は気づかないが、なにやらきな臭い過去のある土地なのである。 秋風やおとこ箒と吹かれ行く (鰻鱈 2005.11.6) 22 ヤクブ・ベク 19世紀後半の1860年代から1870年代にかけて、東トルキスタンから清の勢力を排除し、イスラム教徒中心の国家カシュガリアを築きあげたタジク人(ウズベク人ともいわれる)がいた。その名をヤクブ・ベクという。 ヤクブ・ベクは、かつてのカシュガル支配者で清朝の軍勢との戦いに敗れたのちコーカンド(現在のウズベキスタン・フェルガーナ地方)に逃れたホージャ家に仕えていた。ヤクブ・ベグは少年時代には舞童だった。 1860年代には東トルキスタンでムスリムが清朝の支配勢力に対して反乱を繰り返していた。東トルキスタンに帰るべき好機が到来たと、ホージャ家の軍勢がフェルガーナを出てタリム盆地に攻め込んだ。そのときヤクブ・ベクも軍人として遠征に加わった。1864年のことだった。 カシュガルを中心にしたタリム盆地の西半分から清朝の軍勢を追い払い、ホージャ家はカシュガルの支配権を取り返した。しかし、まもなくヤクブ・ベクが主君であるホージャ家の当主から権力を奪取してしまった。ヤクブ・ベクは1970年代には清朝の軍勢を東トルキスタンの主要部から駆逐し、カシュガリアを完成させ、タリム盆地全体に君臨した。 ヤクブ・ベクはオスマン帝国をカシュガリアの宗主国と認めることでアミール(君主)の称号をもらった。ヤクブ・ベクが支配するカシュガリアはロシアと英領インドから国家として承認された。イギリスはカシュガリアをロシアとの緩衝地帯にしようとして軍事的な援助を与えた。 ヤクブ・ベクはイスラム教を大切にしたが、カシュガリアの統治にあたっては、その手法に野蛮さと冷血を見せたという。やがて、住民の心はヤクブ・ベクから離れていった。ヤクブ・ベクは1875年、左宗裳が清軍4万を引き連れて反撃してきたさい、あっけなく敗北してしまった。 追いつめられたヤクブ・ベクは服毒自殺をしたとも、毒殺されたとも言われている。P. T. Etherton, In the Heart of Asia, Boston and New York, Houghton Mifflin, 1926によると、ヤクブ・ベグは同じつくりで見分けのつかない2つのコップにお茶を入れ、その1つに毒薬を注いで別室に行き、召使にお茶の1つを持ってくるように言いつけた。召使が運んできたそのお茶の1つを飲んで倒れたという。ヤクブ・ベクのハレムには300人の女性がいて、旅行するときはその中から4人を選んで連れて行くのが常だった。 ヤクブ・ベクのカシュガリアの国家としての性格はなんだったのか? 東トルキスタンのイスラムと清朝の抗争に乗じて、国外勢力が入り込んで一時期権力を奪取しただけのことか。それとも、ウィグル人が清朝に対して反乱を起こし、ホージャ家ゆかりの軍人の指導の下で、満州族から東トルキスタンを取り返した輝かしい時期だったのか。 wake up from siesta a young man hammers tinware pounding like a time bell (flores) 槌打つやブリキに宿る神の声 (鰻鱈 2005.11.12) 23 東トルキスタン共和国 ヤクブ・ベクのカシュガリアのほか、タリム盆地周辺には「東トルキスタン・イスラム共和国」と「東トルキスタン共和国」が成立したことがある。 東トルキスタン・イスラム共和国は1933年11月から1934年4月まで存在しただけの短命国家だった。東トルキスタンを支配していた漢族の中華民国新疆省政府に対する、ウィグル族などトルコ系ムスリムの独立運動の成果だった。首都はカシュガルだった。 東トルキスタン共和国は第2次世界大戦中の1944年11月に臨時政府として成立、1946年まで存在した。首都は新疆北部のイリ(クルジャ)。東トルキスタン共和国の背後にはソ連の支持があった。 王柯『東トルキスタン共和国研究』(東京大学出版会、1995年)によると、東トルキスタン共和国の指導部は、イスラム国家をめざす宗教指導者やイスラム住民社会の上層部勢力と、ソ連に後押しされた親ソ派のウィグル人知識人、という2つの勢力で構成されていた。イスラム勢力は政治指導部に、親ソ派勢力は軍部に影響力を持っていた。ソ連の思惑は東トルキスタンの民族独立勢力を利用して、新疆にソ連の衛星国を作ることだった、と同書はいう。 王柯によると、やがてソ連は外モンゴルの独立や中国東北地区でのソ連の利権など、より大きな利益と引き換えに、「新疆問題は中国の内政問題である」として東トルキスタンへの支援をとりやめた。 支援を打ち切られ、やむなく東トルキスタン共和国は1946年、新疆省政府と妥協し、合同で新疆省連合政府を作った。この連合政府わずか1年で解体した。東トルキスタン共和国派の残党はふたたびイリに集結、イリ政府をつくり、中華民国新疆省政府への抵抗運動を始めた。 中国共産党が中華人民共和国の成立を発表する1949年10月1日の直前、1949年8月14日、中国共産党は使節をクルジャに送り、旧東トルキスタン共和国指導者を北京に招き、新疆問題の解決をはかろうとした。 1949年8月25日、ウィグル人、カザフ人、キルギス人の5人の指導者を乗せた飛行機がソ連領内で遭難し、旧東トルキスタン共和国指導部の主だった人々が消えた。この奇妙な偶然について、亡命ウィグル人の間では別の見方がある。5人の指導者はイリからカザフスタンの首都アルトマイ(当時ソ連邦の一部)へ向かい、そこからソ連の飛行機で北に行くよう指示を受けた。スターリンは5人のムスリム政治運動指導者をモスクワに誘拐した。ソ連が解体したとき、元KGB職員が出版した手記によると、5人はKGBの手で拷問を受け、その後殺害された、という。反中国の台湾のTaipei Timesがこの話をアンカラに亡命しているウィグル人歴史家から聞き、1999年10月12付紙面で記事にしたことがある。 1949年9月になって、残った運動の指導者が中国共産党に対して、その指導に従うことを表明した。12月には中国人民解放軍がクルジャに進駐した。 民草の蝕まれたる心など 歯牙にもかけず時は流れる (閑散人 2005.11.13) 24 9.11後の恐怖 カシュガル市の中心部にある人民広場に巨大な毛沢東の像が建っている。カシュガルは清朝によって領土の一部に組み入れられ、そのあと中華人民共和国の一部としてひきつがれたのであるぞ、とこの像は言っている。Colin Thubron, “The Silk Road,” in Great Journey, BBC Books, 1989で、サブロンは、この像は二重にウィグル族をいらだたせている、と書いている。偶像崇拝を嫌うムスリムに偶像崇拝をおしつけているうえ、彼らの民族的心情を傷つけているからだ。この像を爆薬でふっとばそうという計画があったが、周囲の建物にも被害がおよぶので、とりやめになったそうだ。それではノコギリで切り倒してはどうだ、という話になったが、中に頑丈な鉄骨があるのでこれも中止ということになったそうである。 2002年7月28日付のカナダの新聞『トロントスター』のカシュガル・ルポルタージュによると、テロリストの容疑をうけた複数のムスリムが毛沢東像のあるこの広場で見せしめのために開かれた裁判にひきだされて、死刑の判決を言い渡されたという。 every muslim must graps the truth political power grew out of a gun barrel but no longer here in Kashgar (flores) アムネスティー・インターナショナルによると、1997年1月から1999年4月までの間に新疆ウイグル自治区で210の死刑判決があり、190人に死刑が執行された。死刑囚はほとんどがウイグル族で、そのほとんどがテロあるいは国家反逆の罪によるものだった。 2001年の9.11事件に乗じて、中国政府は東トルキスタン・イスラム運動、東トルキスタン解放組織、世界ウィグル青年代表大会、東トルキスタン情報センターの4組織をテロ組織に指定した。東トルキスタン・イスラム運動と東トルキスタン解放組織はアル・カーイダとつながりがあると断定した。 中国政府は9.11事件以前、米国に率いられている反革命勢力がウィグル分離主義運動を支援していると非難していた。9.11事件後、米国政府はテロ対策のために中国の協力を必要とするようになった。そこで米国政府は中国政府のウィグル族に対する弾圧を人権問題ではなく、テロリスト対策であると見解を変えたのである。 では、中国政府のウィグル・テロリズムの認識とはどのようなものか。 米国の人権団体Human Right Watchの2005年のレポートは、中国政府が9.11事件に乗じて、新疆地区で宗教的・文化的メッセージを平和的に伝える人々さえもテロリストよばわりしていると非難した。 Amnesty Internationalが2004年7月7日に発表した中国レポート “People’s Republic of China: Uighurs fleeing persecution as China wages its ‘war on terror’” が「精神的な形によるテロリズム」という中国政府の定義とその事例を紹介している。 2003年1月、カシュガルの音楽堂で詩を朗読した詩人が逮捕された。「彼の詩は少数民族に対する政府の政策を攻撃したものである」と地区の共産党幹部は説明した。「詩人はウィグル族と漢族の一体性と調和を破壊しようとした。それは精神的な形によるテロリズムである」と党幹部は説明した。 中国の西隣にはソ連の崩壊後に独立した中央アジアの国々がある。ウィグル族やトルコ系の民族が住み、多くはイスラム教徒である。新疆のイスラム教徒であるウィグル族が西隣のイスラム教徒・トルコ系民族と共鳴しあうことが、中国政府にとっては不安の種である。タクラマカン周辺には石油、天然ガスがある。中国政府は新疆地区の分離主義運動に神経質になり、分離主義のにおいのする人々をテロリストと断定して、力ずくでおさえこもうとしている。 以上のような話を感じさせる風景は、カシュガルを通過するだけのツーリストにはなかなか見えてこない。バザールは平和ににぎわっており、お年寄りがのんびりとヨーグルトなどを食べている姿が見えるだけである。 老いの日々わが見しものはまぼろしか 年経ればデジャヴ酸っぱし縁の端 (鰻鱈 2005.11.14) 25 アイデンティティー 中央アジアの人々のアイデンティティーを語るとき、よく引用されるのがロシアの歴史家ワシーリー・バルトリドの次のような言葉である。「中央アジアの定住民は自らをまずムスリムであると意識し,次いで特定の都市や地方の住民であることを意識する。特定の民族への帰属意識は,何の意味ももたない」。 十字路の塔の唐草われに問う なんじ何者どこから来たか (閑散人) 第19回「ムスリム泥酔」でふれたJustin Jon Rudelson, Oasis Identities:Uyghur Nationalism Along China’s Silk Road, New York, Columbia University Press, 1997では、著者が1990年代にトゥルファンで聞き取り調査したウィグル族の自己認識のパターンが紹介されている。 著者は聞き取り対象者を農業従事者、商業従事者、教員や公務員のようなインテリの3つの社会層に分けてその結果を比較している。 農業従事者は自分自身のアイデンティティーを①ムスリム②ウィグル③トルファン人④多民族国家中国の一員⑤トルコ系民族、の順で認識していた。 商業従事者は①多民族国家中国の一員②トルファン人③ウィグル④ムスリム⑤トルコ系民族、の順で自らを定義していた。 インテリは①トルコ系民族②ウィグル③トゥルファン人④ムスリム⑤多民族国家中国の一員、の順であった。 同じウィグル族でも、社会階層によって自己認識が大きく異なることがわかった。著者によると、農業従事者ではムスリムとウィグルは同じもの、国際的なイスラムのコミュニティー「ウンマ」の一員という認識が強かった。 商業従事者では、現在組み込まれている中国の社会の中で生きていこうとする傾向が強く見られた。 農業従事者は伝統的なムスリムの自己認識を持ち続けていた。商業従事者は現実主義者だった。 興味深いのは、インテリ層のアイデンティティーだった。彼らは自分たちを①トルコ系民族②ウィグル③トゥルファン人の順に強く認識し、民族主義的な傾向を示した。特に、パミール高原を越えて西に広がるトルコ系民族への同一化と連帯を志向し、逆に⑤中国、④ムスリムの順で、異民族支配とイスラム教の保守性を拒否している。 したがって、北京の中国政府にとっての懸念は、ムスリムの国際的な一体感と、新疆は発展したがその成果は中国政府を肥やしただけでウィグル人のものにはならなかった、という知識人の不満が、汎トルコ系民族運動と連動することである。こうした懸念を背景に、過敏になった北京のタリム盆地周縁の監視のやり方は強圧的である。 中国は2005年3月、レビヤ・カディール(Rebiya Kadeer)という女性の出獄とアメリカへの出国を認めた。この女性は新疆のウィグル人実業家だったが、市販されている新聞のウィグル族についての記事の切抜きをアメリカに住む夫に送ったことが国家の安全を損なったととがめられ、1999年に8年の刑を受けていた。 我思うそれより先に帽子あり (mandala 2005.11.15) 26 パミール 空気の澄んだ日にはカシュガルの町から天山山脈やパミール高原の山が見えるそうである。とくに、パミール高原の中国側にあるコングール山が白い壁のように目の前に迫ってみえる。「第21回グレート・ゲーム」で紹介したLady Macartney, An English Lady in Chinese Turkistan, (reprint), Hong Kong, Oxford University Press, 1985は、そう書いている。マッカートニーさんは領事館の建物の屋根に登って見たのだそうだ。 コングールやムスターグアタなどの万年雪をかぶった7000メートル級の峰を間近に見たければ、いまではほんの数時間、カシュガルカからカラコルム・ハイウェーを自動車でパキスタンとの国境へ向かって走るだけでよい。 カシュガルとイスラマバードを結ぶパミール高原越えのカラコル・ハイウェーは1960年代後半に工事が始まり、80年代初めに開通、まもなく一般に開放された。峻険な山の斜面を切り裂き、剥ぎ取って造った道路は、世界7不思議に次ぐ8番目の不思議であるとパキスタン人は自慢する(Ahman Hasan Dani, Human Record on Karakorum Highway, Lahore, San-e-Meel Publications,1995)。ところで、2005年10月のパキスタン北部地震で、カラコルム・ハイウェーはがけ崩れなどで道路が寸断され、ギルギットからパキスタン・中国国境のクンジェラブ峠まで封鎖されたという。その後、どうなっているのだろうか? パキスタン側に比べて見劣りするダート・ロードだったカラコルム・ハイウェーの中国側道路はここ数年で見違えるほど立派になった。その立派になった道路わきでキルギス人がお土産を売っていた。これもここ数年のこと。さらに検問所が新設され、一人一人が身分証明書をもって関所のような検問所を通らなければならなくなっていた。2001年の9.11事件以後、イスラム過激派の出入りを厳しくチェックするためにつくられたそうだ。 we are the Kirghiz we sell junk to tourists and ourselves are a tourist item (flores) ムスターグアタ峰を水面に映す名所カラクリ湖には、以前にはなかった朱塗りの中国門がたてられていた。このあたり一体の観光事業に漢人が入り込んできたのであろう。 パミールの空は墨を刷いたように黒く、カラクリ湖の面は暗かった。ムスターグアタの山容は雲に隠れ、霰が激しく地面と湖面をたたいた。 パミールを墨絵と化して霰打つ (鰻鱈 2005.11.21) 27 キジル千仏洞 西安のホテルの売店で買った『毛主席語録』の復刻お土産版を、旅の途中、睡眠薬代わりに読んでいた。イデオロギーも政治理論も歴史観もタクラマカン沙漠の風紋のように変わる。 毛語録はいう。「社会主義は、とどのつまり、資本主義にとって変わるであろう。これは人々の意志によっては左右できない客観法則である」(1957年)。なるほど。 社会主義市場経済という名で資本主義化の道を突き進む今の中国を伝えるアメリカの新聞の見出し。Better rich than red. なるほど。 毛語録はいう。「われわれはいま、社会制度の面で私有制から共有制への革命を行っているばかりでなく、技術の面で手工業から大規模な現代的機械生産への革命を行っており、この二つの革命は一つに結びついている」(1955年)。なるほど。 今の中国のホテルのロビーでみた標語。「党の組織的凝集力、戦闘力と影響力を増強し、非公有企業の健康な発展を促進しよう」。現代的かつ効率的な経済活動のための革命的手段としての非公有促進ですか。なるほど。 世の中は公有私有おなじこと 銭コネ持たぬ路傍の衆生 (閑散人) そのむかし、アメリカの政治学者が次のような公式を書いた。中国共産党-社会主義経済+市場経済=国民党。市場主義経済を推進する共産党支配の中国は、もはやどこにでもある権威主義国家に過ぎない。中国は私有制をみとめ、ブルジョアジーの共産党入党を認めた。理論的に証明されてはいないが、経済発展は民主化促進への圧力を生む、とよくいわれる。国家資本主義から市場資本主義へと突き進む中国で、やがてどんな政治変動が生じるのだろうか。もっとも、ブルジョアジーとはいっても、その多くは国営企業の幹部や政府高官が変身したものだから、当面は共産党支配の現状維持を望むだろうという説も強い。ぜひ、長生きして見物したいものだ。 クチャ近郊にあるキジル千仏洞を見に行った。この石窟の仏教壁画も他の石窟寺院と同じように、ムスリムによって破壊され、西洋の探検隊に剥ぎ取られ、紅衛兵にも荒らされた。 千仏洞のガイドがこんな民営化の話をしてくれた。2005年8月に北京に本社のある「中坤」グループが千仏洞の観光経営を政府から任された。中坤グループは傘下に中坤旅游という旅行会社を持っている。この旅行会社は新疆南部で手広く商売をしている。中坤は1年間100万元の賃貸料を政府に払うことを条件に千仏洞の経営権を手に入れたのだそうだ。 剥ぎとられむしりとられて千仏洞 (mandala) 千仏洞からクチャの町に帰った。泊まったのは8月に新館がオープンしたばかりのホテル。レストランの階上の広間では、近くの共産党事務所の人やお役所の人がひっきりなしに宴会を開いているので、ツーリストの皆様へ十分なサービスが行き届かず申し訳ないと、ホテルの人が言っていた。お偉方は野菜代程度の支払いで、宴会を開いているのだそうだ。 (2005.11.22) 28 スバシ故城 クチャは漢字で庫車、昔は屈支、亀茲とも書いた。天山南路最大のオアシスだった。音楽があふれる町だった。クチャの音楽はかつて亀茲楽とよばれた。ここの楽器とそれよって奏でられる音は、シルクロードを東にたどり、やがて海を渡って日本に至り、雅楽に大きな影響を与えた、といわれる。そのお返しかどうかはしらないが、クチャの町を散歩していたとき、遠く東海の島国からシルクロードを西行してやってきた現代の文物交流を目にした。 玄奘はクチャについて、屈支国の気候は穏やかで風俗はすなおであり、インド系の文字を使い、管弦伎楽は特に諸国に名高い、と『大唐西域記』に書き残している。 屈支国では幔幕を張り、亀茲楽を奏でて、国王や高僧ら数千人が玄奘を出迎えた、と『大慈恩寺三蔵法師伝』は言う。 閑話休題。玄奘はクチャのどこかで聞いた素っ頓狂な物語を『大唐西域記』に書き残している。あるとき王様が弟にあとを任せて仏陀の聖跡めぐりに出かけた。弟は自分の男根を切り取って金の箱に収め、ご帰還の後お開きくださいと王様に渡した。王様が帰還後、王弟が宮廷内の風紀を乱したと告げ口するものあった。激怒した王様が弟に厳罰を加えようとしたとき、弟は箱を開いて中のものを見るように王様にいった。このようにして弟は災難を逃れた。その後、弟は去勢されそうになっている500頭の牛を憐れんで買い取った。この慈善によって、弟の男根はやがて元通りになった。めでたいことである、と王様は伽藍を建てて記念とした。 さて、玄奘は河をはさんで東西2ヵ所にあった昭怙釐(しょうこり、zhao-gu-li)とよばれた伽藍を訪れ、「仏像の荘厳はほとんど人工とはおもえず、僧は持戒はなはだ清く、まことのよく精励している」と書きのこしている。現在ではスバシ(蘇巴什)故城とよばれているところである。 玄奘三蔵にひかれ、この高僧が歩いた道のほとんどすべてをたどって旅したNew York Timesの書評担当記者のRichard Bernsteinは、その旅行記Ultimate Journey, New York, Alfred A. Knopf, 2001で、スバシ故城にたたずんださいの感想をつぎのように書いている。 スバシ故城を見ているうちにリチャードさんはすっかりメランコリックな気分になり、「玄奘三蔵のこと、昭怙釐のこと、私の出自のこと、それらすべてが混じりあって、1つの旋律となって流れて行った。主題は、消え去りし時、失われし場所であった」。さもありなん……と筆者も同じ場所に立って、そう感じた。。 秋風孤塔渡りけり昼の月 (鰻鱈 2005.11.24) 29 西気東輸 コルラはトゥルファン、クチャとならぶ天山南路の主要なオアシスだった。「香梨」とよばれるナシがここの特産品で、9月ごろこれが出回るとタリム盆地に本格的な秋が来る。 コルラは1984年に南疆鉄道によって東のトゥルファンと結ばれた。鉄道は1999年に西のカシュガルまで開通した。 コルラの特産品は、いまや、石油・天然ガスである。この町にはタクラマカン沙漠の石油発掘の総司令部がおかれている。タリム盆地の天然ガスをはるか4,000キロ以上も離れた上海まで送るパイプランも完成した。天然ガスを西の生産地から東の消費地に送る。これを「西気東輸」とよんでいる。 タリム盆地のエネルギー資源を東に送る仕事を求めて、漢族が東から西にやってきた。コルラの人口増加率はこのところ年1割ほどである。増えているのはもっぱら漢族。2004年のコルラの人口は40万人だったが、うち漢族64パーセント、ウィグル族34パーセントと、ウルムチとならんで、漢族の構成比が高い町になっている。 中華とはいえどもここはアッラーの おわせし土地と知るや肝心 (閑散人) ウィグル族から見れば、一連の西部開発はウィグル族の周縁化、タリム盆地の北京への従属化をともなって進んでいるように見えるだろう。新疆では、民族間格差を次のように表現する。カザフ族が羊を飼い、ウィグル族が売って、漢族が食べる。新疆ウィグル自治区内の貧困県は24県あり、このうちウィグル族の民族構成比が高い南新疆に17の貧困県がある。 石油と天然ガスの生産が本格化したここ10年ほどで、コルラの町は大変貌を遂げた。広い道路が建設され、それに沿って高層ビルが立ち並んだ。沙漠の北辺でバブルのような建設ラッシュが始まったのである。 on the desert brim they build bubble towers until they turn into babels (flores) われわれ旅行者は9月21日、コルラの石油・天然ガス・コンプレックス敷地内にあるホテルに宿泊した。日本に帰って、われわれがコルラをたった翌日の23日、ウィグル族のコルラ市長、ムタリプ・ユスプ氏が自殺したというニュースをウィグル関連のインターネット・サイトで知った。中国のメディアは例によって報道を控えているので、詳しいことはわからない。汚職の容疑をかけられていた、市長は誤った政府の政策のプレッシャーを受けていた、などとサイトではうわさされている。経済が急膨張することで生じたさまざまな利害関係と思惑、漢族増加による民族間の軋轢などを考えると、ウィグル族のコルラ市長の死の背後には、なにやら、いわくありげなドラマがありそうに思えてくる。 (2005.11.25) 30 新疆50周年 天山南路の国道314号は西域南道の国道315号に比べて交通量がはるかに多い。第3セクターで生き残った過疎地域の鉄道ダイヤと、都市郊外バスのダイヤくらいの違いがある。 天山南路では治安当局が道路端に臨時の検問所を設けて、バスやトラックを検問していた。われわれ外国人団体旅行者のバスも3回ほど道路わきに停車を命じられた。運転手とガイドが当局に対応するだけで、短時間で通り抜けた。しかし、定期の長距離バスは、道路沿いの空き地に誘導され、全員がバスからおろされ、テントの中で一人ひとりに調べられていた。 まじかにせまった2005年10月1日の国慶節が、新疆ウィグル自治区成立50周年の節目の日だったせいであった。 BBCによると、東トルキスタン解放組織があらゆる手段を使って中国に対して武装闘争を挑む、というビデオ声明を流した。亡命ウィグル人の組織である世界ウィグル会議も中国に対して「政治的抑圧、文化的同化政策、経済的搾取、環境破壊、人種差別によって、新疆が時限爆弾になる危険性が高まっている」と警告の声明を発表していた。 これに対して中国当局はきびしい警戒態勢をしいた。治安責任者はウィグル分離主義者に対する取締りの徹底を命令していた。 BBCによると、中国政府は分離主義者をテロリストと定義しており、過去20年に260件のテロ事件がおきたと発表している。タリム盆地周縁でのウィグル分離主義者と中国当局の衝突については、中国政府の発表、ウィグル民族組織や反中国団体の発表、西側メディア、西側人権団体が伝える未確認データも含まれた情報が錯綜している。軍事情報で有名なJane’s が出しているForeign Reportによると、1949年から1972年までに548件の暴動があり、36万人が殺された、という。 天山南路を走るバスの車内で揺られながら、筆者はChina's Wild West という言葉を思い出した。この言葉は西域南道では思い浮かばなかった。 コルラからトゥルファンへ向かう、道端の食堂で麺を食べた。野菜だけの精進ラグ麺だった。ウィグル人のガイドが、調理場を視察したあと、肉を使わないよう調理人に指示したためだ。 太麺や情緒途切れる昼下がり (鰻鱈 2005.11.28) 31 アスターナ古墳 NHKが初代シルクロード・シリーズの取材を始めたのは1979年のことだった。このシルクロード・シリーズ放送に続いて、中国政府は新疆地区の主要観光地を外国人に開放していった。 自宅の本棚から陳舜臣・NHK取材班『シルクロード 第5巻 天山南路の旅 トルファンからクチャへ』(日本放送出版協会)をひっぱり出した。本の中から古い新聞記事の切り抜きが出てきた。朝日新聞(1979年3月15-17日夕刊)掲載の「トルファンの冬-中国・遺跡の旅から」。当時は考古学者や歴史学者、ジャーナリストらの訪中団見聞記が、まだ堂々と夕刊文化面の3回シリーズになった。 この記事の筆者の玉利勲・朝日新聞編集委員はトゥルファンでアスターナ古墳を訪れた。古墳の内部を玉利氏は「…見事な壁画があった。白いしっくいの地塗りの上にべんがらで六幅の形に仕立てた画面には、赤、黒、青、緑でかれんな草花や水鳥が描かれていた」と書いていた。 この古墳は現在も公開されており、中国南部出身の漢族のお役人が、トゥルファン勤務を命じられ、そのまま赴任先で死ぬ定めとなり、ふるさとの草花や鳥で墓室を飾った、と観光客はガイドから説明を受ける。 アスターナ古墳の壁に描かれた望郷の草花と水鳥。帰りたい人。第3回「玉門関・陽関」で引用した李白の子夜呉歌の1節「何れの日か胡虜を平らげ 良人遠征を罷めん」。帰りを待ちわびる人。日本に“企業戦士”とよばれた人々がいた。その人々が海外単身赴任をし、引き起こした家庭悲劇が話題になった。むかしもいまも、同じ悲歌。 2005年になってから、新疆生産建設兵団の“生産戦士”の暴動が相次いでいる、と2005年8月17日の毎日新聞が報じた。7月には天山南路のクチャ‐カシュガル間にあるアクスで、兵団員による武装暴力事件があった。このため、黄菊副首相が7月27日から1週間、新疆ウィグル自治区を訪問し、兵団対策の強化を話し合った。生産兵団の“戦士”は、ウィグル族の暴動事件などのさい鎮圧のために動員される。しかし、自らが暴動の主役になることもあるようだ。 毎日新聞によると、中国各地から集められた団員で構成される漢族中心の新疆生産兵団の中にも南北問題があり、南部の兵団で経済的立ち遅れが目立っている。こうした南部の兵団では生活苦に耐えかねて、それそれの出身地に帰りたいと希望する漢族の団員が増えている。しかし、その希望はおいそれとは聞き入れられず、兵団員の不満が爆発して暴動になっている、そうである。 玉利氏はアスターナ古墳を「広大な砂地にまるい土盛がつづくだけの平凡な風景だった」と描写した。今でもそうである。にもかかわらず、ここに立つと、遠い昔の見ず知らずの人とはいえ、つい、その人たちの人生とその終焉に思いをはせてしまう。墓地の気配というものに心が支配されるからだろうか? Shake your tomb, reply! My voice that weeps for you Is the autumn wind (Basho=Keene) Under such a large stone stele he lies dead (Hosai=Sato) dig here to see great human follies; sing low your elegy (Flores 2005.11.29) 32 ベゼクリク千仏洞 トゥルファンには、前回触れたアスターナ古墳をはじめ、ベゼクリク千仏洞、高昌故城、交河故城と名所旧跡が多い。観光客は炎暑の中を押し合いへし合い名所を駆け巡っていた。 ベゼクリク千仏洞は、火焔山の山麓の断崖に掘られた仏教石窟寺院。寺院の入り口近くに安っぽい遊園地風の施設が急造されていた。以前来たときにはなかった。 高昌故城は漢人の麹氏が建てた高昌国の王城の跡。628年に国王麹文泰はここに玄奘を迎えた。国王はこの地に永く留まってほしいと玄奘に頼む。玄奘は国王の要請を拒み、早くインドへ旅出させてくれとハンストに入ったそうだ。玄奘がインドへ去ったあと、麹氏の高昌国は唐によって攻められ、640年に滅んでしまった。 交河故城は干上がった2つの河が交差する場所にあるので、そうよばれている。土で造られた寺院や役所や住宅の遺構がある。土ばかりの遺跡が暑さを余計に強める。 トゥルファンはウィグル語で「くぼんだ土地」の意味だと観光案内に書かれていた。市街地の南にあるアイディン湖は海抜マイナス155メートル。154メートル説もあるが、なにしろ、年間降水量15.6ミリに対して年間蒸発量が2539.41ミリの土地である。雪どけの春は水をたたえるが、夏は蒸発し、湖底がみえてくる。海抜マイナス155メートルというのは、湖底のことか、湖水面のことか? トゥルファンの年間平均気温は14.4度だが、夏季には最高気温の平均が38度を超える。これまでに記録された最高気温は49.6度。想像もつかない。観光案内によると、太陽に照らされた地表の温度が80℃にもなる日があるそうだ。そこで、この地では「壁のうえでパンを焼く」という言い方があるという。文字通りの「火州」。トゥルファンについては、9月というのにひどく暑かった、という記憶ばかりが強い。 タリムなる盆地のえくぼトゥルファンは 空釜を焚く焦熱地獄 (閑散人 2005.12.3) 33 地の恵み ハミからトゥルファンにかけては、トゥルファン(吐魯番)の「吐」とハミ(哈密)の「哈」をとって、トハ(吐哈)油田と名づけられた油田地帯が広がっている。観光客がトゥルファンの街のホテルからベゼクリク千仏堂や高昌故城を往復する道からも、油井ポンプや、やぐらの上で余剰ガスを燃やすフレアスタックが赤く炎をあげているのが見える。ここでもまた、荒地が富を生み出している。 火焔山が太陽に照らさて地表温度をあげ、陽炎がゆらめいて山肌が燃えているように見せる。その熱い山並みを背景にフレアスタックが燃えているのである。 一方、ものみなすべてを蒸発させるそのトゥルファンの地表の下を冷たい天山の雪解け水が流れている。地下水路カレーズである。飲んでみたが、それほどうまい水でもなかった。 カレーズはイランで生まれた乾燥地帯の地下水路カナートがトゥルファンに伝わったという説がある。一方、中国の学者たちは、イランから伝わったという証拠はなく、中国が独自に開発した技術だと主張しているそうだ。 それはさておき、カレーズはトゥルファンを中心に、隣接するトクスン、シャンシャン、ハミにあるが、年々その数が減っている。新藤静夫氏がインターネット・サイトで掲載している論文「新疆ウイグル吐魯番(トルファン)盆地のカレーズ」によると、カレーズの数は1962年1,200余、1987年1,156だったものが、最近では725に急減しているそうである。 原因はカレーズを維持するよりも深井戸を掘ったほうが安あがりだからだ。深井戸は1949年に1,049だったが、1987年には4倍増の4,000に達したそうである。深井戸から水をどんどん汲みあげたため、1974年ごろから干上がるカレーズ現れてきたそうだ。さらに、1989年ごろから本格化したトゥルファン盆地での石油開発で、人口が急増し、地下水の利用が増えた。新藤論文によると、石油開発が本格化した1989年から1991年の2年間だけで、3メートルの地下水位の低下を示した場所が多くあったそうである。カレーズの平均水深は1.5メートルで、地下水位の低下はカレーズにとって致命的だった、と新藤氏は書いている。 このシリーズ第2回「月牙泉」で「沙漠の砂山の中に忽然と現れる泉――奇跡といわれている鳴沙山のふもとの月牙泉は、水位が下がり、やがて枯れ果て、沙漠のなかに消えようとしている」と書いたのと同じことが、同じ原因でここでも起きている。 トゥルファンや水と油の地の恵み (鰻鱈 2005.12.3) 34 赤色産業 トゥルファンは有名なブドウの産地である。 初唐の詩人王翰の涼州詞。 葡萄の美酒夜光の杯 飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す 酔うて沙場に臥す君笑うこと莫れ 古来征戦幾人か回る 涼州は河西回廊の現在の甘粛省武威県。夜光の杯は、おそらくホータンあたりから来た白玉の杯。葡萄の美酒は西域のぶどう酒。長安から西征し、沙漠で戦死する兵士は多い。せめて生きている間は玉の杯でワインを飲もう。酔って沙漠で眠ったとしても、笑わないでくれ。そういっているのだが、これは漢族の心情。相手だった西域の民族がどう思っていたかは、どうも詳しくわかっていない。 トゥルファンでも干しブドウのほか、ワインの醸造に励んでいた。 中国人がワインを愛飲する傾向が目立ち始めている。1990年代に外国のワインが輸入され、豊かになった都市部の中国人の食卓に白酒に代わってワインボトルが置かれるようになった。洋風化した中国人のなかから、日本や韓国にちょっと遅れてワインスノッブが現れはじめた。 1999年代の後半で、中国のワイン消費量は6割増、中国産のワイン生産量は3割増になった。ワインの世界の消費量は1人当たり年間平均7.5リットルで、中国では0.5リットル。この先中国人の中産階級(という言い方は、中国の国家原則からして変な気がするが、実際に出現しているので、まあいいか)の数が増えるにしたがって、ワイン消費量はどんどん伸びると業界は予測している。 トゥルファンのワインも、河北省の長城ワイン、山東省の張裕ワイン、天津の王朝ワインといった国内ブランドを追って売り込みをはじめている。 中国ワインはまだ国際市場に本格的に進出するだけの力はないが、新疆地区が中核の、赤色産業、つまりトマト加工品は世界市場に進出している。もともと中国は世界第1位のトマト生産国だ。世界中の生産量の約2割を占める。新疆ウィグル自治区では、トマトケチャップの生産が急成長している。世界市場の3割を占めているといわれる。 ところで、白色産業の新疆綿花もそうだが、赤色産業のトマトも、例の漢族中心の“屯田兵”集団である新疆生産建設兵団がもっぱら手がけている。タリム盆地の石油産業の中核にいたのは漢族だった。コルラは急速に漢族の町に変貌していた。 西部大開発は多くのウィグル族の家の前を素通りしている。ウィグル族は旗色が悪い。 開発の風は沙漠を吹き抜けて (鰻鱈 2005.12.4) 35 風の丘 大がかりな風力発電基地は1990年代のはじめ、カリフォルニアで見たことがあった。サンフランシスコの東、アンタルモント・パス。カリフォルニア州は、こことあと2ヵ所の風力発電基地で、1990年代中ごろには世界の総風力発電量の3割を発電していたそうだ 同じような風力発電基地が、ウルムチ近郊のトリ地区にあった。トゥルファンからウルムチに向かう高速道路沿いの丘の上である。巨大な風車が林立している。最近、日本の企業もここの風力発電事業に参加することになったそうだ。われわれ旅行者がここを通り過ぎたとき、なぜか風車はまったく回っていなかった。 旅行者がここを通るとき必ず聞かされるジョーク。トゥルファンからウルムチへ出かけたウィグル族の老人が、トゥルファンに帰ってきて言った。「トゥルファンがやたら暑く、ウルムチが涼しい理由がわかった。丘の上に大きな風車を据えて、天山から吹いてくる涼しい風を全部ウルムチのほうへ送っているからだ」。 棒立ちであとは天山風まかせ 鰻鱈 ウルムチから西安行きの飛行機に乗る前、市内で昼飯を食った。ウルムチは大都会だ。そして漢族の街だ。昼飯は大清花餃子店。中国の満州料理レストラン・チェーン店である。店内には清朝の皇帝のポートレートが張ってあった。 満州族の清王朝はウルムチを迪化と名づけ、清朝による新疆支配の中心とした。満州族騎兵の大部隊を駐屯させた。グレート・ゲームの19世紀、ロシア帝国の東進を防ぐための軍事拠点だった。 (2005.12.4) 36 西域三十六国 西域という言葉は中国の歴史書『漢書』ではじめて使われた。漢書西域伝によると、漢の武帝の時代、西域ははじめて中原の王朝の支配を受けた。36国が漢に内属した。その後、漢の宣帝は紀元60年、西域統轄のために西域都護府を設けた。これをもとに、中国政府は、前漢は西域で国家主権を行使しており、西域は紀元前から中原の支配下にあった。現在の新疆は当時から中国という多民族国家の一部であった、としている。 以後、後漢、 隋、唐、元、清の時代を通じて、中原の中央政府は西域に対して、時代によって強弱はあったが、国家主権を維持してきた。そこへ9世紀ごろウィグル族がやってきて住みついたのである。現代の中国政府はそう主張している。 一方、ウィグル族の民族主義者たちは、現在のウィグル族は、漢が西域に現れる前からタリム盆地とその周辺に住んでいた先住民の子孫だと主張している。モンゴル高原からやってきたテュルク(トルコ)系の民族がタリム盆地に住んでいたインド・ヨーロッパ系の民族と交じりあって、今日のウィグル族になったというのである。 この2つの主張が今後どう展開してゆくのか、なかなかのみものである。現在は中国共産党政権が新疆ウィグル自治区で圧倒的な力を見せている。だが、帝国は時間の経過とともに崩壊してゆくものだ――ペルシャ帝国、ローマ帝国、モンゴル帝国、大英帝国。ロシア帝国の後継者ソ連は経済的に立ち行かなくなって崩壊し、中央アジアのイスラム圏の国々が独立した。中華帝国の後継者中国では、経済発展ゆえに共産党支配が崩壊することがあるかもしれない。清朝末期から中華民国の時代にかけて中原の力が衰弱したとき、西域にはウィグル族の国家が短い期間だが成立していた。 西安にたどり着くと、秋雨が降っていた。久しぶりの雨だった。西安は、西域進出をはじめて試みた漢の武帝の曽祖父、高祖(劉邦)が首都に定めた、その後隋、唐にその名を引き継がれた都「長安」の後継である。 長安は歴史にそぼ降る秋の雨 (鰻鱈 2005.12.5) ―おわり― |