1 雪ふりしきる

雪の話となれば、まず引き合いに出されるのが中谷宇吉郎の『雪』(岩波新書)である。中谷はその本の第1章「雪と人生」の冒頭で、鈴木牧之の『北越雪譜』を引合いに出している。



『北越雪譜』の「雪の深浅」という項目の中の文章である。「雪の飄々翩々(ひょうひょうへんへん)たるを観て花に諭(たと)え玉に比べ、勝望美景を愛し、酒食音律の楽しみを添え、絵に写し詞につらねて賞翫するは和漢古今の通例なれども、是雪の浅き国の楽しみ也。我越後のごとく年毎に幾丈の雪を視れば何の楽しき事かあらん。雪の為力を尽し財を費し千辛万苦すること、下に説く所を視ておもいはかるべし」



 除雪費が底をついても雪は降る (青森・奥崎東英)
 血税をブルとダンプで海へ棄て (青森・永田久)

上に掲げた川柳は、『北越雪譜』が書かれてから百数十年後、新潟と並ぶ豪雪の地・青森の新聞『東奥日報』のサイトの「とうおう世相川柳」アーカイブに収められていた作品である。くらしに重くのしかかる雪である。

 生死のなか雪ふりしきる  山頭火

山頭火はこの自由律の句を1931年(昭和6年)に詠んだ。山頭火の雪はどんな降り方をしていたのだろうか。山頭火は1931年には熊本に住んでいた。山頭火が芭蕉の足跡を追うように奥の細道の日本海側を行脚したのは1936年のことだ。ただし初夏6月の旅で、雪が降ることはなかった。行脚の北限は芭蕉と同じく、平泉・中尊寺。

「雪ふりしきる」が山頭火の頭の中の景色ではなく、実際に見た風景だとすると、その雪は鈴木牧之のいう「雪浅き国」の雪であろう。

したがって、この句では「生死」と「雪」の間に因果関係はない。雪と関わりなく生死があり、そこへたまたま雪が降りしきっただけのことだ。これまた鈴木牧之のいう「詞につらねて賞翫する」雪である。

 田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける
                       (山部赤人 万葉集)
 田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
                      (新古今集・百人一首)

万葉集の「雪は降りける」が新古今集では「雪は降りつつ」と修正されている。修正したのは藤原定家とされている。田子の浦から見れば山頂の冠雪で「雪は降りける」ことがわかるのだが、はて、富士に「降りつつ」ある雪が田子の浦から見えるのか。

「君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ」(光孝天皇)の名調子を富士の高嶺にまで応用した藤原定家の勇み足だが、定家にしてみれば「勝望美景を詞につらねて賞翫する」雪浅き国の風雅の伝統にならったまでのことだった。

そうだ、ひさしぶりに雪ふりしきる国へ行ってみようか。






2 はやて

20121月中旬。東北新幹線の「はやて」で新青森に向かった。那須あたりで遠山に雪が見えた。



仙台の手前あたりでは平地にうっすらと雪があった。



盛岡に近づくと平地の雪の白さが目立つようになった。



同じ東北でも太平洋側と日本海側では降る雪の量が違う。盛岡市の平均年間降雪量は累計で3メートル強、青森市の場合は盛岡市の倍の7メートル強になる。

あとで新聞のローカルニュースを読んで知ったのだが、1月中旬現在で、盛岡では例年より雪の少ない日が続いていた。去年の冬、盛岡市は大雪で市道の除雪作業が遅れた。それで、この冬は除雪委託業者を増やし、市民に貸し出すロータリー除雪車は小型除雪機を増やしていた。ところが皮肉なもので、1月半ば現在、増強した態勢が生かされるほど雪は降っていない。「降らないのは市民にとっていいことだが、機械を動かせないと稼げない」と除雪業者は複雑な思いだ。新聞はそう書いていた。

盛岡は懐かしい町だ。昔むかし、大学を出て新聞社で働き始めたときの、初めての職場が盛岡だった。新聞社の支局には古い4輪駆動のランドクルーザーがあって、冬になるとその車にチェーンを履かせ、アイスバーンになった雪道を走った。

夜勤の夜の締めくくりの仕事は「書き原」(原稿をインターネットで即座に送れる今では想像もつかないだろうが、当時は急ぎの原稿は漢字テレタイプで東京に送り、急がない暇ネタは書き上げた原稿や写真を原稿袋に詰めて列車便にして東京に送っていた)を盛岡駅まで運ぶことだった。

夜更け盛岡駅まで人気の少ない街中をタイヤチェーンをまいた車で硬くなった雪道を走った。「シャン、シャン、シャン」とそりの鈴のような音がした。いまや隠居老人になった筆者は、まだ青年だったころ聞いた、懐かしく、またわびしかったその音を思い出しているうちに、うとうととしてしまった。



列車が盛岡を出て八戸、新青森と進むにしたがって車窓から見る風景は雪深くなる。青森県では、これも後で読んだ、125日のNHKのローカルニュースによると、今冬は雪の降り始めが早く、去年11月から今年124日までの累積の降雪量は、青森市で4メートル15センチと平年を61センチ上回った。青森市は203000万円の除雪費用のうち、110日までに15億円余りを使ったという。弘前市でも5億円の除雪費が底をつき、今月10日に4億円を追加したが、ほぼ5日分の除雪費に当たる11千万円余りしか残っていない、ということだった。

あらかじめ雪対策に金をかけた東北新幹線は雪に強い。東海道新幹線の関ヶ原雪害問題に懲りて、雪国を走る東北新幹線などは、砂利軌道をスラブ軌道に変更し、スプリンクラーで軌道上の雪を溶かし、列車も雪に強い構造にしてある。さらに、盛岡から新青森の間はその半分以上がトンネルだ。

おかげでこの日も定刻に東京駅を出て、定刻に新青森についた。




3 雪の十字路

今年は1月末から2月初めにかけて、日本海側は大雪に見舞われた。

道路の積雪で自動車がじゅずつなぎになって立ち往生し、屋根の雪下ろし中の事故で命を落とす人が相次ぎ、学校が臨時休校した、などなどの雪害ニュースが報道された。

今では使われなくなった言葉だが、半世紀ほど前の新聞では「白魔」という言葉がよく見出しに使われていた。大火事の時「火魔狂う」という活字が躍っていたころの用語法である。いまどき使うと歳がばれることになりそうな古いボキャブラリーである。

私が東北へ雪見に行った1月中旬は、比較的天候が安定していた。曇天、あるいは薄日、最後には快晴の日もあった。

東北新幹線の最終駅・新青森についたときは曇天ながら雪は降っていなかった。だが、当然のことながらあたりは一面の積雪だった。



東北新幹線の新青森駅は奥羽本線の新青森駅上に高架で十文字にまたがっている。奥羽本線と旧東北本線・現青い森鉄道の終点は青森駅で、その先は津軽海峡だ。東北新幹線は北海道新幹線へとつなぐので、青函トンネルに出やすい奥羽本線の新青森駅に新幹線駅がつくられた。

奥羽本線新青森駅は新幹線と接続させるために20数年前につくったわびしい駅だ。この駅から弘前駅に向かうのだが、雪で列車が遅れていた。雪に強い東北新幹線は遅れなかったが、在来線はやはり雪で遅れる。

踏切で自動車が立ち往生して奥羽本線上りの列車が遅れている、とアナウンスがあった。

しばらく待っていると、「立ち往生していた自動車は自力で踏切を離れました」と続報がアナウンスされた。「自力で」という説明が、実況放送風でなにやら面白く、あたり一面真っ白で寒さがつのるプラットホームで遅れた列車を待つイライラ感をなだめてくれた。



東海道・山陽新幹線の新大阪駅、新神戸駅も在来線の大阪駅や三宮駅と違う場所につくられたが、今ではそれなりに街の中心部に向かう交通網が整備された。新青森駅が青森市中心部とスムーズにつながるまでにはなにがしかの時間が必要だろう。

30分遅れで列車がやってきて、乗ること30分で弘前駅に着いた。



弘前はリンゴの街だ。弘前市のリンゴ生産量は日本第1位である。これから弘前城へ雪見に行く。




4 弘前城跡

今日は210日の金曜日。いまごろ弘前城跡の弘前公園では恒例の雪灯籠まつりがおこなわれていることだろう。



雪灯籠や雪像など大小500ほどを公園内に配置して、夜になると天守閣をライトアップ、冬の弘前の情緒を演出する。

仙台七夕、青森ねぶた、秋田竿灯が東北の夏の3大祭りだ。重要な観光資源になっている。雪に埋もれる冬を景気づけるために、札幌雪祭りほど名は通っていないが、横手かまくら、男鹿のなまはげ、八戸えんぶり、弘前の雪灯籠まつり、雫石の岩手雪まつりを「みちのく五大雪まつり」と称して観光宣伝中だ。

これらの雪祭りが開催されるのは2月。私が弘前に行ったのは1月中旬。したがって弘前城跡の公園には雪が積もっているだけで、人影はまばらだった。公園だから、園内の通路は人での多寡にかかわらず除雪されていた。



今年の弘前雪灯籠まつりには、園内除雪の費用にみあうだけの観光客が来てくれているのだろうか。東北のローカル線は気の毒なほど乗客が少ない。公共交通機関であれば走るのをやめるわけにはいかない。公園であれば来る人はまばらでも雪かきはやらねばならない。



城跡公園は一面の白い雪で、冷たい風景だった。その中で、朱塗りの橋が鮮やかだった。






5 津軽三味線

弘前を発つ朝、駅構内を眺めて、あらためて津軽の雪の深さを知った。今日もまた雪見列車の旅だ。



列車の発車ベルがメロディー化されて発車メロディーになったのは1980年代後半から1990年代にかけてだった。

最初のころはベルの音の緊迫感がなくなり、どこかふぬけた感じの発車になったような気がした。だが、いまではすっかり慣れしまって、発車メロディーも何か発車の音がしているなという認識があるだけで、なんという曲の一部かなどと気づくこともまれになった。

弘前駅に着いたときは気がつかなかったのだが、弘前駅を発つとき、駅の発車メロディーが津軽三味線の音であることに気がついた。

「べべんべべべん……」というと琵琶のオノマトペになってしまうか。「ビンビンテンテン」とダイナミックな津軽じょんがら節の一部を合図に列車は弘前駅を離れる。

弘前駅から乗ったのは、青森から弘前経由五能線を走って最終秋田に至る白神2号。準定期的に運航しているが扱いは観光用の臨時列車だ。



弘前から川部、五所川原と雪の原を走り、鰺ヶ沢で海辺に出る。千畳敷、深浦と荒涼とした冬の日本海沿岸をひたすら走って、東能代から奥羽本線に入って秋田に着く。

途中から黒い衣装の女性二人が三味線を持って列車に乗り込み、車内のラウンジで三味線の演奏を聴かせてくれた。



あれは1970年代のことだったろうか。高橋竹山に代表される津軽三味線が大いにもてはやされたことがある。懐かしかったので、家に帰ってから、もの入れを探したらほこりをかぶっていた竹山のLPが出てきた。パソコンを使ってデジタル化、CDに収めると同時にiPodにも入れた。

さらに懐かしいことに、竹山の『津軽三味線 高橋竹山』のアルバム・ジャケットの裏面の写真が恐山の菩提寺。現在のように観光寺になる以前の、まだ辺境の荒れ寺の雰囲気を色濃く残した1970年代初めのころの写真だ。

私はそのころ恐山に行って、宿坊で一泊したことがある。部屋の中には裸電球が一つぶら下がっているだけ。暗闇の中を歩いて境内の温泉場で硫黄くさい白濁した湯につかり、宿坊に帰る途中、闇のむこうから石灯籠がこっちに向かって歩いてくるのが見えた。あのときは湯上りの背筋が凍ったね。

あまりの不気味さで、温泉に行く人が歩く石灯籠に見えたのだ。竹山の『津軽三味線』、懐かしい音、懐かしい写真のアルバムだった。

冬の日本海の眺めはご覧の通り。列車の窓に緑色の色ガラスを使っているので、窓越しに撮影した日本海はそのフィルター効果で、さらに寒々しさが増幅された。






6 あきたこまち

奥羽本線の八郎潟駅ホームの駅名標識が半分雪に埋もれていた。



この駅名標識の向こう側に大潟村がある。大潟村は琵琶湖に次ぐ日本で2番目に大きかった湖・八郎潟を埋め立てて造った干拓地に入植してきた人々の村だ。

日本離れした大型米作農業の実践地と当時の農林省がふれこんだ。だが、米離れにともなうコメの過剰生産、生産調整など、日本の農政の揺らぎにとともに、八郎潟干拓地の米作農業もそれなりに揺れ、メディアに引合いに出されることが多かった。

いま政府が推進しているTPPはやがて日本の農業を壊滅させることになるとの論を農業団体などが叫んでいる。TPPの話が煮詰まってくれば、八郎潟干拓地の米作に関する報道を見聞きする機会がまた増えてくることだろう。

大潟村の水田は、いまはこの雪の中で深い眠りの最中だ。

この列車は10分ほど遅れているが、男鹿線の男鹿行き普通列車が追分駅で乗り換えのために停車していると車内アナウンスがあった。それで、男鹿線に乗り換えて男鹿半島を見てみようという気になった。

追分駅を出てしばらくすると、列車が鉄橋を渡った。向こうに水門が見える。八郎潟調整池の水門だ。



電車はたんたんと雪景色の中を走り、終点の男鹿駅に着いた。2月になると男鹿のなまはげ祭りを見に来る観光客でにぎわうのだろうが、1月中旬のいまはさびしい駅だ。



次の列車で折り返し秋田に向かった。

秋田駅の駅ビルのレストランで比内鶏の親子丼を遅めの昼ごはんに食べた。比内鶏の肉を少々あぶってスモーク風味をつけてから親子丼にする。使う卵も比内鶏のもの。そう説明にあった。丼のご飯は、たぶん、あきたこまちだろう。うまかった。もっとも値段もそれなりのものだったが。

久保田城跡にある千秋公園をのぞいてみたが、当然のことながらそこにあったのは雪だけ。

秋田市内で一泊し、翌朝秋田駅から列車に乗った。午前8時過ぎの駅前はこのとおり。日本海側の冬は厳しい。






7 あまるめ

秋田から羽越本線で余目に向かう。



列車の進行方向右手に海の風景が続く。

象潟の駅には芭蕉の奥の細道行脚最北の地であることを宣伝するのぼりがたっていたが、旅行客の姿はほとんどなかった。芭蕉がこのあたりに来たのは夏だ。芭蕉の時代、冬の奥の細道は風雅の対象にはなりえなかった。



象潟を過ぎ、吹浦の手前あたりで進行方向左手に山塊が見えた。おそらく鳥海山だろうが山の上半分に雲がかかっていて山の形は定かではない。



やがて列車は酒田を過ぎ余目に着く。ここで陸羽西線に乗り換えだ。

余目駅で陸羽西線の列車待ちのあいだ駅の周辺を散歩する。とはいっても見えるもの積もった雪だけである。



寒いので駅舎に戻って売店でコーヒーを買い、ストーブの前に座り込んでいたら、壁に映画「おくりびと」のシーンの一つが余目駅のプラットホームで撮影されたという観光宣伝ポスターがはってあった。



撮影の時期が春だったので、鳥海山から残雪を運び込んでホームにまいて気分を出したと説明書きがあった。今は冬だ。どっさり雪がある。雪がほしいならなぜ冬に撮影しなかったのだろうか。




8 最上川ライン

余目から陸羽西線の列車に乗って新庄に向かう。時刻表のJR路線図を見ると陸羽西線に「奥の細道・最上川ライン」と添えてある。何年か前、自動車で最上川沿いに走ったときは、奥の細道という感じはしなかったが、雪景色の陸羽西線には奥の細道の趣があった。見えるのは雪の最上川だけである。



新庄は山形新幹線の始発駅だ。新幹線に乗り換えて米沢に向かう。

米沢は米沢ビーフで有名だ。米沢駅前のレストランでステーキを食った。米沢ビーフのサーロインステーキを注文したのだが、店の人は「焼き具合は?」ときいてくれなかった。客の方から「ミディアム・レアで頼む」と言わねばならなかった。ここで、嫌な予感に襲われた。

予感は不幸にも的中した。結構な値段のくせに、肉質と言い、焼き具合といい、ランチの1000円ステーキ並みだった。



米沢に1泊した翌朝は雪間の青空が広がった。米沢から米坂線・白新線経由で新潟に出る。



新潟から上越新幹線に乗り、越後湯沢で途中下車、最後の雪見をした。このころには雪見にも少々飽きてきていたのだが。



雪の越後湯沢から東京行き上越新幹線に乗り、長いトンネルを抜けると、あたりの風景から雪がまったく消え失せた。

                                  写真と文・花崎泰雄