1 傷は癒えてきたのだろうか

日本エーゲ海学会の夏季研修旅行に参加して8月中旬から下旬にかけてギリシャを旅してきた。4年ぶりのギリシャである。今回は北ギリシャが主な訪問地だった。前回ギリシャを訪れた2010年、ギリシャは財政危機の真っただ中にあった。

今回の旅行に出かける前の20147月、学会の定期会合でアテネ大学のK教授(環境考古学)から、最近のギリシャ事情を聴いた。財政再建のために公務員が削減され、給与・賞与が削られ、その上増税で市民の暮らしの窮迫は続いているとのことだった。

K教授は話の中で、浮世のことだけではなく、2013年に亡くなったマーティン・バーナルの著書『黒いアテナ』にふれた。

『黒いアテナ』の主張――古代ギリシャの文明はエーゲ海周辺の文明が入り混じって一つの統一的な文明に完成されたもので、たとえばギリシャのアテナ神は古代エジプトの女神ネイトが起源であり、ギリシャ文明のルーツはアフロ・アジア的なものにある――は刺激的である。さらに『黒いアテナ』は、かつて一般的だったアフロ・アジア的文明が育てたギリシャ文明という説に代わって、19世紀ごろからアーリア人(白人)が世界的な勢力に育つとともに、ギリシャ文明は白人がつくった文明という人種的な主張がまかり通るようになった、というバーナルの説は、力と歴史の見方の関係についてのさらに刺激的なメッセージである。『黒いアテナ』をめぐる議論は決着がついていないが、仮説としては興味深い。

K教授は考古学者らしく、『黒いアテナ』の主張を裏付ける考古学的証拠の誤りにふれ、バーナルは考古学には素人だから、と言った。

いやがおうでも、ギリシャに出かける気分が盛り上がってくる話ではないか。



アテネについた日の午後、アクロポリスのふもとの繁華街・プラカでお昼を食べた。旅行の参加者の1人が「ギリシャはいまも遺跡をつくっている」と皮肉を言った。通りのあちこちが日本でいう「シャッター通り」のようになっている。

何年も続く経済不況の後遺症である。財政危機をめぐる騒動でギリシャの収入源の一つである観光産業が不振に陥った。2013年の失業率は25パーセントにのぼった。青年層の失業率はもっと高く60パーセントに迫った。いずれもEU域内で最も高く、現代ギリシャ史上最悪の数字である。と新聞が伝えている。給与や年金はおよそ4割がカットされたそうだ。

とはいうものの、景気はまだら状ではあるが回復の兆しが見え始めている。ギリシャにやって来る観光客の半分が夏に集中する。この夏は観光客のギリシャ回帰が目立つようになった。ギリシャの観光産業はGDP16パーセントを占め、労働力人口の2割が観光産業に従事している。景気回復のきっかけになるかもしれない明るいニュースだ。

研修旅行の一行は夕方までアテネ市内で時間をつぶしたあと、北ギリシャの町カヴァラへ向かった。カヴァラは北ギリシャではテッサロニキに次ぎ2番目に大きな町だが、アテネ−カヴァラを結ぶ空の便は早朝と夕方の計2便だけしかない。一行が818日朝アテネ空港に着いたとき、カヴァラ行の朝の便は離陸した後だった。そういうわけで、プラカでできつつあるアテネの現代の遺跡を時間つぶしにのんびりと見ていたのである。

アテネの西のピレウス港では中国遠洋運輸公司(COSOC)が港湾整備を進めている。財政危機の最中の2010年に契約が結ばれた。中国はこの港を欧州貿易の拠点にしようとしている。20146月には李克強首相、その翌月には習近平主席と、中国首脳が相次いでギリシャを訪問している。それほど中国のピレウス港に対する思い入れは強い。

ギリシャおける中国のプレゼンスの様子をちょっとのぞいてみたい気がしたのだが、今回は残念ながらその時間がなかった。



2 眺めは熱海、風は軽井沢

北ギリシャ・東マケドニア地方のカヴァラは美しい港町である。泊まったホテルは港に面していた。

カヴァラは北ギリシャで生産される葉タバコの積出港の一つである。北ギリシャからマケドニア旧ユーゴスラビア共和国、ブルガリア、トルコにかけてはタバコのオリエント葉の主要生産地だ。ギリシャから日本に向けて輸出される主要農産物の3番目がタバコである。

港の東側に小山になった小さな岬が突き出ていて、そのてっぺんに城跡が見えた。ビザンティン時代、つまり東ローマ帝国時代の城跡だ。その下の斜面に城壁に囲まれた住宅街が広がっている。このあたりがカヴァラの旧市街である。



朝目を覚まして窓を開けると、東側に旧市街と城跡が見えた。かすかだが東の空が赤く染まり、清々しい夏の終わりの朝の眺めである。

夕方になると今度は沈む夕陽を真に受けて旧市街と城跡が赤く染まる。少々熱気がこもった感はあるが、これもまた美しい。



旧市街の斜面の下には、港に面したカラオリ広場があって、レストランがひしめいている。魚料理で有名なところだ。

カヴァラのホテルに泊まった3日間、晩飯はこのカラオリ広場のレストランで食べた。

8月も下旬にさしかかると、昼はまだ暑い北ギリシャも、夜風が爽やかになってくる。日本エーゲ海学会の誰かが、「ここはいい所だね。眺めは熱海、風は軽井沢」と食卓で感想を述べた。



夏の終わりにしてはホテルも海辺のレストランも込み合っている。ギリシャ人と丁々発止の口論ができるほどギリシャ語に堪能な、この研修旅行の引率者O先生によると、カヴァラ周辺から海外に出たギリシャ人が夏の休暇で里帰りしているせいだという。O先生がアテネからカヴァラに向かうプロペラ飛行機で乗り合わせた子連れの女性の一行や、ホテルのフロントから聞き出した情報だ。

海外のギリシャ系移民は多く、筆者がかつて暮らしたことのあるオーストラリアのメルボルンには15万人近いギリシャ系の市民が住んでいた。メルボルンに住み着いたギリシャ系移民の多くが第2次大戦後から1980年代にかけてやって来た人々とその家族である。

このところのギリシャ経済不振が原因で海外に出るギリシャ人が増えた。一方で、海外で稼いだお金をギリシャに里がえりして使ってくれる人もいる。



3 ビザンティンの城

午後遅く、カヴァラ旧市街の坂道を登って、丘のてっぺんにあるビザンティンの城跡へ行った。

ホテルのフロントは「ホテルの玄関を出て右手に歩き、突き当りを左折、すぐ右折して、あとは道なり。歩いて10分ほど」とこともなげに言った。不動産屋の道案内と同じで、多くの場合、実際のアクセスにはその倍近い時間がかかる。

城跡への途上、カヴァラの旧市街を描いた街頭看板のようなものがあった。この町の観光資源が城跡とオスマン時代の水道橋であることがよくわかる。

モスクもあった。カヴァラは14世紀後半から20世紀初頭までオスマン帝国の領域だった。したがってモスクが残っていても何の不思議もない。モスクの前に説明板があり、モスクはキリスト教会の跡地に建てられたと書いてある。これはよくある話。メキシコを征服したスペイン人はアステカの神殿を壊してキリスト教会を建てた。アテネのパルテノン神殿はビザンティン時代にキリスト教会になり、オスマン時代はモスクになった。ギリシャ独立後にモスクは取っ払われた。徳川将軍家の居城はいま皇居である。

城はビザンティン時代のアクロポリス跡にオスマントルコが築いた。15世紀前半のことらしい。城壁そのものはビザンティン時代のもものだ。



城跡に円形の塔がたっていて、登るとカヴァラの町が一望できる。遠くに新市街の白い建物群が見え、城跡のすぐ下にはオレンジ色の屋根の建物が密集している。その向こうに北エーゲの青い海がある。

城跡にはカフェがあって、その近くの広場では音楽会の設営が進められていた。コンサートは夜になってから始まるのだろう。しかし、会場付近には駐車場がないので、バイクで来るか、坂道を歩いて来るかしかない。なかなか大変なコンサートである。

  

水道橋も見える。水道橋は旧市街地と新市街地の間の低地部分に架かっている。この水道橋は、ローマ時代かビザンティン時代かに造られた水道橋跡地に、新しく16世紀のオスマン朝スレイマン大帝の時代に建造された。長さ300メートル弱、構造物のもっとも高いところは地上から25メートルほどある。

つくられて500年以上がたつが、そばによってみると古びた感じがしない。遺跡や遺構はそれなりに古びているほうがありがたみを感じるものだ。



4 ブルータス

シーザーを暗殺した後、ブルータス(ブルートゥス)はローマを離れた。ローマではシーザーの後継をめぐってアントニウスとオクタヴィアヌスが熾烈な権力闘争を繰り広げていることを知り、ブルータスは兵をあげ、ローマに向かった。

ブルータスの挙兵を聞いたアントニウスとオクタヴィアヌスは共同でブルータスの進撃を阻止しようとした。

ブルータスの軍と、アントニウスとオクタヴィアヌス連合軍は、マケドニアのフィリッピ(ギリシャ読みではフィリッポイ)で戦闘を開始した。紀元前42年のことである。

決戦を前にした夜、ブルータスは陣営で幻影を見た。

その幻影は以前ブルータスが小アジアからヨーロッパへ渡ろうとしていた時に現れたのと同じ幻影だった。

ブルータスが最初に幻影を見たとき、幻影は人並み外れた大きな体格の恐ろしい異様な姿をしていた。

「どなたです。人ですか、神ですか。何の用があってきたのです」
ブルータスが尋ねた。
「あなたの悪霊だ。フィリッポイで会いましょう」
幻影が答えた。
「会いましょう」
ブルータスも平然とした態度で言った。

ブルータスの前に2度目に現れたとき、幻影は、しかし、何一つブルータスに語りかけず、沈黙のうちに立ち去った。

やがて、ブルータスはフィリッピの戦でオクタヴィアヌスとアントニウスの軍に敗れ、自害した。アントニウスはブルータスを最高の敬意を払ってとむらい、遺骨をブルータスの母のもとに送った。ブルータスの妻は火の中から燃えている炭を呑みこみ固く口を閉じてブルータスの後を追った。

以上は『プルターク英雄伝』(岩波文庫)に書かれているエピソードである。

フィリッピの古戦場はカヴァラの町から北西に20キロ弱のところにある。車で半時間ほどの距離だ。

フィリッピの古戦場跡は、日本の関ヶ原古戦場と同じで、往時の面影は残っていない。現在、フィリッピの核になっているのは、フィリッピの都市廃墟である。

フィリッピの町はアレキサンダー大王の父であるフィリップ2世が造った。フィリッピの戦いの後、オクタヴィアヌス派の将軍たちが移り住み、街を繁栄させた。いま見られるフィリッピの遺跡は主として古代ローマ時代の都市であるが、それ以前のギリシャ式アクロポリス、それ以後のビザンティン時代の城壁なども入り混じっている。



2世紀後半のマルクス・アウレリウス皇帝の時代に造られた公共広場(フォーラム)のかたわらに腰を下ろし、しばらくの間は呆然とあたりの風景を眺める。フォーラムに隣接して、初期キリスト教のバシリカ式聖堂の跡がある。

伝道師パウロはフィリッピを訪れてキリスト教の普及に努めた。
新約聖書のパウロ書簡に「フィリピ人への手紙」が残されている。フィリッピでのパウロの布教はうまく運んだらしく、この手紙にはパウロのフィリッピの人々に対する温かい気持ちがにじんでいる、と諸本が解説している。



5 アンギティスの鍾乳洞

カヴァラに滞在して、車で北ギリシャ・東マケドニア地方の遺跡や町を日帰りいくつか訪れた。フィリッポイの遺跡のあと、ギリシャの隣国ブルガリアとの国境がある山岳地帯の麓のアンギティスの鍾乳洞へ行った。

最近、観光用に整備された鍾乳洞で、鍾乳洞は全長20キロ以上に及んでいる。

日本の三大鍾乳洞のひとつである岩泉・龍泉洞には深い地底湖が広がっていて、その地底湖の水を名水としてペットボトルに詰めて販売している。アンギティスの鍾乳洞には地下の川が流れている。冷たい水だが飲めるかどうかわからない。

20キロ以上にわたって延びるアンギティスの鍾乳洞のうち、木道を設け、照明をつけるなどして観光用に整備されている部分はわずか500メートルほどである。

鍾乳洞は管理事務所の人が案内してくれた。洞内は写真撮影禁止。ただ1回だけ決められた場所で記念撮影が許される。そういうわけで、アンギティス鍾乳洞内の写真はない。鍾乳洞の入り口付近は撮影が許されているので、地上にぽっかりとあいた穴を地下から見上げた写真を添えておこう。

鍾乳洞から地上に出た水は川となってさらさら流れる。夏のギリシャはどこへ行っても乾ききっているのに、ブルガリア国境に近いアンギティスには、豊富な水があって、風景は緑深い。川のほとりでバーベキューを楽しんでいるグループがいた。地元の人々がピクニックを楽しむ場所になっている。



アンギティスの鍾乳洞からカヴァラに帰る途中、ドラマというこのあたりの中心になっている町に立ち寄って、お昼を食べた。

2次大戦中ドイツはブルガリアに進駐し、ブルガリアを枢軸国のメンバーにした。そのあと、ドイツ軍とブルガリア軍が北ギリシャに攻め込んだ。

ブルガリアの民族主義者たちの間には、第1次バルカン戦争でブルガリア領に組み入れたものの、第2次バルカン戦争で失う羽目になったマケドニア地方などを、再びブルリア領に組み込もうという領土的野心があった。北ギリシャ人の間には今でも、ブルガリアのマケドニア地方に対する野心は消えていないと警戒する人がいると言われている。

2次大戦でギリシャに攻め込んだドイツ軍とブルガリア軍は占領地域を分割し、マケドニア地方はブルガリアが占領した。ヒトラー政権のユダヤ人迫害に呼応して、ブルガリア軍はドラマやカヴァラなどの町に住んでいたユダヤ人を拘束した。捕まえたユダヤ人をタバコ倉庫に放り込んだ。北ギリシャは葉タバコの生産地で、各町にタバコ倉庫があった。やが

てユダヤ人たちは倉庫から連れ出され、トレブリンカなどのユダヤ人強制収容所に送られた、殺された。

東マケドニア地方にやって来た観光客は、タバコ産業ゆかりの建物をもの珍しそうに眺めるのであるが、葉タバコ倉庫の中に人間が強制的に詰め込まれた歴史に思いをはせることは少ないだろう。

夏のギリシャは観光客にとっては天国だが、歴史をほんの数ページめくれば、ヨーロッパのどの国もがそうであるように、いやがおうでも、権力と支配、領土争い、民族対立、あげくのはての戦争といった人間の暗部をのぞくことになる。



6 アンフィポリスの獅子
アンフィポリスで一番人気の観光用遺跡と言えばこれだろう――アンフィポリスのライオン。アレキサンダー大王の部下だった将軍の武勇を讃えて、紀元前4世紀ころつくられたといわれている。第1次バルカン戦争の最中、ちょうどこの場所で陣地を掘っていたギリシャ兵がライオン像の破片の一部と土台を掘り出した。



1次世界大戦のとき、ここに陣地を構えたイギリス軍がライオン像の破片を多数発見した。そのあと、本格的な学術調査が行われ、1930年代に復元された。シンガポールのマーライオンよりは、考古学的価値がある。

ギリシャに出発する前、イギリスBBCのサイトなどで、北ギリシャのアンフィポリスでアレキサンダー大王の時代の墓が発掘されたという記事を読んだ。

アレキサンダー大王の側近の武将か、大王に近い女性の墓ではなかろうかと想像されている。いずれにしても、ギリシャでは久しぶりの重要な遺跡の発掘であり、ギリシャのアントニス・サマラス首相が発掘現場で発表するほどの力の入れようだ。

BBCによるとギリシャの人々もこの大発見に興奮しているという。日本エーゲ海学会の一行をアンフィポリスに運んでくれたマイクロバスの運転手も、「あれはアレキサンダー大王の墓だ。アレキサンダーの石棺はイスタンブールの考古学博物館にあるそうだが、これでイスタンブールのものが偽物と判定される」と嬉しそうに言った。

運転手君はアンフィポリスから100キロほど東へ行ったテッサロニキのバス会社の人だ。テッサロニキあたりではそんな噂話がたっているのかもしれない。これもまたギリシャ人の古代への情熱が作り出した噂である。

イスタンブールの考古学博物館にあるアレキサンダーの石棺は、アレキサンダーを埋葬した棺ではなくて、石棺にアレキサンダーが狩をしている姿が刻まれているのでそう呼ばれているだけだ。アレキサンダー大王はバビロンで死んだあとエジプトに運ばれ、アレキサンドリアで埋葬されたという説が有力だ。しかし、墓自体は見つかっておらず、いまでもときどき、アレキサンダー大王の墓発見か、という話が持ち上がる。

アンフィポリスへ行ってみると、発掘現場に行く道は進入禁止になっていた。つまり現場では発掘作業が続いていて、関係者以外立ち入り禁止の措置が取られているのだ。

アンフィポリスの考古学博物館の館員さんの案内で、アンフィポリスのその他の遺跡を見て回る。アンフィポリスはアレキサンダー大王とその父フィリップの時代に栄えた。北ギリシャの交通の要衝だったので、その繁栄はビザンティン時代まで続いた。

    

紀元前5世紀ころから1000年以上も続いた街なので、発掘された遺跡は時間的には重層し、空間的にはたこ足状に広がり散在している。

館員さんは古代の石積みとビザンティン時代の新しい石積みが入り混じった壁、運動競技場跡、古代の木造の橋の跡などを精力的に案内してくれた。

東京に帰ってから、BBCのサイトを見ると、発掘された墓の規模が非常に大きいことから、現地のギリシャ人たちが「あれだけの墓におさまるのはアレキサンダー大王しかいない」とタベルナで噂の花をさかせているという。考古学者やギリシャ文化省のお役人たちが、それは誇大な妄想というものだ、と噂話を諌めているそうである。

BBCによると、いまのところ墓の主はアレキサンダー大王の母オリンピアスかアレキサンダー大王のペルシャ人の妻ロクサーナ、あるいは他のマケドニアの貴人の可能性があるとされている。



アンフィポリスからカヴァラに帰る途中、北エーゲ海の海岸に出て、夏の賑わいから晩夏のさびしさへと移り始めたビーチでランチを食べた。ギリシャの写真は何と言っても海が一番だ。



7 クサンシ

カヴァラから北東へ30キロほど、クサンシという町へ行った。クサンシはギリシャ・トラキア地方の中心都市の一つ。カヴァラやドラマは東マケドニア地方だが、クサンシはトラキア地方になる。ギリシャのトラキア地方を東へ東へと進めば、やがてトルコ領に入り、イスタンブールにたどり着く。東マケドニアとトラキアを合わせて、北ギリシャのこのあたりを東マケドニア・トラキア地方とよぶ。

クサンシは東マケドニア・トラキア地方の例にもれず、タバコ産業で栄えた。いまは静かな田舎町である。だが、クサンシの街の歴史は静けさとは縁遠いものだった。

オスマントルコがコンスタンティノープルを攻め落としたのは15世紀のことだが、オスマントルコ軍はそれ以前の14世紀にダーダネルス海峡を渡り、現在のギリシャ・トラキア地方を征服していた。以来、クサンシは19世紀末までオスマントルコ領だった。

20世紀初頭の第1次バルカン戦争で、クサンシはブルガリア領に組み込まれた。すぐさまギリシャ軍が第2次バルカン戦争でクサンシを奪還したものの、その後の外交交渉でクサンシはブルガリアに割譲された。第1次世界大戦の結果、クサンシは連合軍が占領し、のちにギリシャ領に復帰した。第2次大戦が始まると枢軸国のメンバーとなったブルガリアがクサンシを占領した。クサンシが現在のようなギリシャの町になったのは、第2次世界大戦後のことである。

クサンシの町には18世紀から19世紀に建てられたタバコ産業関連の実業家たちのお屋敷跡が残っている。オールドタウンとよばれている一角を歩き、古い建物群を見た。手入れの行き届かない建物も多く、あれた感じのオールドタウンだが、それも味わいの一つだろう。



オールドタウンの近くにモスクがあり、ミナレットがたっていた。第1次世界大戦後にギリシャ・トルコ戦争が起き、その結果、ギリシャとトルコはそれぞれの国に住むイスラム教徒とギリシャ正教徒を交換した。例外として、イスタンブールに住んでいる正教徒、ギリシャ領トラキアのイスラム教徒は例外的にその地に残留することが認められた。

そういうわけで、ギリシャ・トラキア地方には、トルコに移動しないでギリシャに残留したイスラム教徒の子孫が10万人ほど住んでいる。

クサンシの町を歩いたあとの夕方、日本エーゲ海学会の一行はカヴァラの空港(別名アレキサンダー大王空港)から、プロペラ機でいったんアテネにもどった。カヴァラ空港は国際線もあり、免税店にはiyi yolculuklar (bon voyage)のトルコ語の表示があった――東マケドニア・トラキアにただようかすかなトルコの匂い。





8 閑話休題

いったんアテネにもどった次の日、マイクロバスを仕立て、政府公認観光ガイドの案内でペロポネソス半島東部のアルゴリス地方をめぐる日帰りツアーに出かけた。

アテネを出てコリントス運河経由、シュリーマンの発掘で有名になった伝アガメムノンの居城ミケーネを訪ね、ギリシャで最も保存状態の良い古代円形劇場があるエピダヴロスを見た。

ペロポネソス半島のこの部分は4年前にも来ている。4年前と風景は変わらない。神話の時代から歴史の時代へと移行を始めた、ちょうど2つの時代が重なり合っているころのアガメムノンについても、新しい説を聞いていない。

そういうわけで、アルゴリス地方遊覧を詳しく書けば、このサイトの「ギリシャ 夏 2010と重複する。

ぐるっと回って、アルゴリス地方の行政の中心地ナフプリオの町で遅い昼ご飯を食べた。ギリシャの夏は暑いし、日本エーゲ海学会のギリシャ研修旅行参加者は年配の人が多いので、研修・見学で歩き回るのは午前中が中心。お昼ごはんをのんびり楽しんだ後は、たいてい休息に入る。

ふらふらと街中を歩いてみた。ブーゲンビリアが咲く魅力的な通りがある。

ブーゲンビリアはインターネット・サイトには花言葉「情熱 あなたしか見えない」とあった。恋の花咲くナフプリオ。





9 スニオン岬

アテネからマイクロバスに荷物を積み込んでスニオン岬に向かう。スニオン岬でポセイドンの神殿跡を見て、そのままアテネ空港に向かい、夕方の飛行機でリムノス島に向かう旅程だ。

サロニコス湾に面したアッティカ半島の海岸線を70キロほど南に走ると、ポセイドンの神殿跡に到着する。

サロニコス湾に面したこの海岸線は、アテネ市民の保養地になっている。ギリシャには比較的工業地帯が少なく、海は汚されていない。海岸線のあちこちにビーチがある。ビーチの反対側、つまり山側には高級そうな邸宅が並んでいる。アテネのお金持ちのサマーハウスだそうだ。

スニオン岬には以前来たことがあった。あれは12月で、ポセイドンの神殿跡があるエーゲ海に突き出た岬の先端の台地に上は風が強く、寒かったのを覚えている。今回は夏のポセイドン神殿跡詣でだ。



岬からは遠くて見えないが、岬の南東のエーゲ海にはキクラデス諸島の島々が散らばっている。ポセイドンの神殿跡の柱は岬のがけっぷちに立っている。崖は高さ60メートル。

絶望したアイゲウスという名のアテネの王様がここから海に身を投げて死んだ、と神話は言う。以来、この海がエーゲ海とよばれるようになった、とのことだ。

アイゲウス王はなぜスニオン岬から身を投げたのか。神話によると、王様の息子のテセウスがクレタ島にミノタウロスという怪物退治に出かけた。テセウスはアリアドネという女性の助けでミノタウロスを退治した。

テセウスはアリアドネを連れてアテネに向かったが、途中の島でアリアドネと離れ離れになってしまった。テセウスは独りでアテネに向かった。

スニオン岬でテセウスの帰りを待っていたアイゲウス王は、帰ってくるテセウスの船が黒い旗を掲げているのを見て、絶望のあまり海に身を投げた。ミノタウロス退治に出かける時、成就したら白い旗を、失敗して殺されたら黒い旗を船に掲げて帰ると、約束していたにもかかわらず、テセウスが間違って黒旗を掲げた。



スニオン岬から空港に向かう途中、海岸のレストランでランチを食べた。



10 イギリス村

アテネの空港をプロペラ機で飛び立って1時間もしないうちにリムノス島の空港に着いた。空港の駐車場でマイクロバスが待っていてくれた。

「夕食はどこで食べますか? 街に出るのならホテルに荷物を置いた後、この車でご案内しますよ」と運転手さんが言ってくれたが、ホテルのレストランで食べるからいいですよ、ありがとうと言っておきました、とO先生。気のいい運転手さんのようである。

ホテルのレストランは屋外にあった。ブッフェ・スタイルのレストランだ。レストランのすぐ近くにバーがあり、その前に広々としたテラスがあって、イギリス人の大人や、若者、子どもがたむろしている。ホテルのエンターテインメント部門の主任が、ホテル付属の施設、テニスコート、プール、ヨット、モーターボート、サイクリングその他の遊戯施設利用法を客に説明している。非常に流暢な英語をしゃべっている。その横に若い男女が整列している。エンターテイメント主任が、テニスのことならこの○○にお尋ねください、などと係を一人ずつ紹介していた。イギリスから新しい団体客が着いたところなのだ。

泊まったホテルはリムノス・ヴィレッジ・リゾート・ホテルという名で、どうやら団体保養旅行を専門にしているようである。O先生の説明では、このホテルは、以前はドイツ人の団体客を専門に受け入れていたが、いまはイギリス人団体客が多くなったという。

イギリスからチャーター機で飛んできて、しばらく遊園地のようなホテルで遊び、またチャーター機で帰って行く。インドネシア・バリ島にある5つ星ホテルほどには成金的豪華さはないが、コンセプトとしては同じである。朝食はホテルの建物の中のレストランで食べる。食べ物を皿にとっていると、イギリス人が話しかけてきた。ロンドンから来たごく普通の勤労者だった。



ギリシャにやって来る外国人観光客は観光業界の統計によると、トップがドイツ人、次にイギリス人、3番目がFYROM4番フランス、5番ロシアである。この上位5か国の観光客が全観光客の半数近くを占める。

ギリシャの観光業はギリシャの諸産業の中で、最も国際競争力のあるものの一つだ。観光はギリシャのGDP16.4パーセントに寄与しており、雇用労働者の約5人に1人が観光産業で働いている。

それはさておき、先に紹介した観光客数の統計にFYROMとあったので、聞きなれない国名だなあと、調べてみた。FYROMとはFormer Yugoslav Republic of Macedoniaのことで、日本語ではマケドニア旧ユーゴスラビア共和国という長ったらしい国名に翻訳されている。

FYROM1991年にユーゴスラヴィア連邦から離脱、独立して「マケドニア共和国」と名乗ったさい、ギリシャが異を唱えた。マケドニアは歴史的にも文化的にもギリシャと不可分である、というのが理由である。そういうわけで、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国という名前が妥協の産物としてつくられた。

多民族、多文化、多宗教のバルカンらしい出来事である。

このリムノス・ヴィレッジに3泊してリムノス島内を回ったのだが、最終日の朝、荷物をまとめてマイクロバスに乗りこもうとしたとき、ホテルの支配人が現れてO先生に話しかけていた。「食事を用意するから、お昼にホテルに帰ってきて食べてください」と口説かれたとO先生。「でも、ここまで帰って来るのは面倒なので断った」

イギリス人の次に日本人団体客を視野に入れてのセールス・プロモーションだったのかもしれない。



11 ミリナ

ミリナはリムノス島最大の町である。といっても、町民は3千人ほど。海に突き出た岩山の上に城壁が見える。ビザンチンの城とよばれている。



リムノス島は女性の立ち入りを禁じる修道院で有名なアトス山と小アジア(トルコ領)のちょうど中間点の北エーゲ海に浮かんでいる。この地理的条件から、島にはエーゲ海の攻防の歴史の荒波が押し寄せた。

新石器時代からこの島には人が住んでいた。かれらはトロイアやキクラデス諸島と頻繁な交流があったらしい。地中海は比較的穏やかな海だし、距離もそう遠くない。

まず、リムノス島はアテネの植民地になった。次いで、攻めてきたペルシャ軍によって占領された。アテネの軍勢がペルシャ軍を追い払ったあと、再びアテネの植民地なった。

そのあと、勢力を増大させたマケドニアの領土となり、続いて古代ローマ帝国の支配下におかれた。ローマ帝国の分裂によって、島は東ローマ帝国の領域に含められた。

東ローマ帝国のアンドロニクス・コムネノス皇帝が12世紀の終わりごろ、古代の要塞跡に城を築いた。この城は13世紀初めにこの島に進出してきたヴェネチアによって、現在のような形に作り上げられた。

その後も、島の支配をめぐって、ビザンチン、ヴェネチア、ジェノヴァ、オスマン・トルコが争った。最終的にオスマン・トルコが島の支配権を奪取した。15世紀後半のことである。

ヴェネチアの支配の後、オスマン・トルコが1479年から1912年までの間この島を支配し、岩山の城を居城とした。

18世紀の後半にはこの島でオスマン・トルコ軍とロシア帝国軍が戦った。その時、城は城壁だけを残して建造物の大半が破壊された。

1次大戦中はイギリスが島に海軍基地をおいた。イギリス軍とフランス軍はこの基地を足場に、ダーダネルス海峡に攻め込んだ。

いまは無人の城跡にはオスマン・トルコ時代のモスクの跡が残っている。シカが住みついていて、住民たちがシカの餌や水を運び上げている。ミシュランの年季の入ったガイドブックには、そう書かれていた。だが、ガイドブックにはビザンチンの城までは20分近い登り、とも書かれていたので、登るのはやめた。



夕食はミリナのウォーターフロントにある魚レストランで。観光用にライトアップされたビザンチンの城を見ながらの優雅な食事である。

足元に、エーゲ海の波の音。聴き入れば、長い歴史の中で幾度もいくども繰りかえされた兵士たちの鬨の声が聞こえてくる。



12 ポリオフニ

ギリシャでは地方の小都市でも考古学博物館を持っている。展示物はその地方の遺跡から見つかった文化財である。

リムノス島のミリナにもこぢんまりとした考古学博物館があった。展示物は島内の遺跡から発掘されたものが中心だ。といって、いちがいに侮れないのがギリシャの考古学博物館なのだ。

ミリナの博物館の貴重展示物の一つが、島内の遺跡から出て来たセイレーンの像である。『オデュッセイア』に出てくるギリシャ神話の女神あるいは妖女で、オデュッセウスが部下に命じて自分の体を帆柱にかたくしばりつけさせ、身動きできなくなったうえで聞いた美声の持ち主である。

高津春繁訳の『オデュッセイア』によると、2人のセイレーンは、

「いざ、ここへ、その名も高きオデュッセウスよ、アカイア人の大いなる誉れよ、われら二人の声を聞くべく、船をとどめよ。われらが口より流れ出る蜜のように甘い声を聞かずして、黒い船にてここを通り過ぎたる者とてなく……」

ミリナの博物館のセイレーンは紀元前6世紀ころのつくられたものだ。上半分は人間風、下半分は鳥風である。リムノス島は遺跡から大量のセイレーンの像が見つかったことで

有名である。

ギリシャ同様、日本も遺跡の国で、全国に46万ヵ所もの遺跡がある。遺跡密度1平方キロメートルあたり1.2か所。この遺跡密度は世界最高ランクに位置づけられる、と国立奈良文化財研究所のサイトに出ていた。したがって日本にもギリシャなみに郷土博物館が多い。



ミリナの博物館に入る時、博物館の庭の日陰で、初老の紳士が修復された古めかしい壷を背にして、何やら書き物・調べものに専念していた。考古学者の雰囲気である。その横には研究室の助手風の若い女性が椅子に座って本を読んでいる。どうも映画のシーンにでも使えそうな雰囲気だ。

博物館を見学し終わると、マイクロバスの運転手さんが「私の家によってお茶でも飲んで行ってくれ」と、自宅に招待してくれた。自宅には彼の小学生の娘と、彼の両親が住んでいる。妻とは離婚した、と運転手さんはケロッとした表情で言った。

運転手さんの両親と娘さんが、自宅の畑でとれたメロン、スイカ、イチジクや、自家製のフェタチーズ、それにコーヒーやウーゾまで出してもてなしてくれた。O先生によると、こういうのがギリシャの農村風の歓待だそうだ。

ここで、ちょっとだけ脱線。写真を見ていただくと、皮を剥いたイチジクが、食べやすいように半分に切られていることがわかるだろう。日本ではイチジクは皮を剥いて食べる。アメリカ西海岸には熟しても皮がグリーンなままのカドタ・イチジクという品種があった。たいての人はこのイチジクを皮ごと食べていた。スペインのイチジクもおいしかった。かの地でも皮ごと食べる人が多かった。日本のブドウは皮ごと食べるとまずいが、ギリシャのブドウはたいてい皮ごと食べる。習慣なのか、品種が違うからなのか。

リムノス島には古代ギリシャの遺跡に加えて、紀元前3000年頃から人が住み始めた古い集落の遺跡がある。ポリオフニ。遥かなる遠い時代の遺跡として、ヨーロッパで指折り数えられるほどの古さである。トロイア建国以前にできた集落で、トロイア戦争ちょっと前ごろまで人が住んでいた。発掘を手がけたのはイタリアの考古学者である。発掘は1930年ごろにはじまった。





13 ボクシングをする少年

リムノス島からアテネに帰ってきた。1日かけて考古学博物館とアクロポリス博物館を見て回った。

考古学博物館は団体客で込み合っていた。ソファーにすわって休憩していると初老の男性が隣に座り話しかけてきた。

「どこからきた?」
「東京だ」
「この博物館を出た後の集合場所はどこだった?」
「集合場所って?」
「あんた、グループのひとじゃないのか」

どうやらエーゲ海クルーズでピレウス港に入った船の乗客の団体エクスカーションで博物館は込み入っていたらしい。

テラ(サントリーニ)島の遺跡で見つかった有名な「ボクシングをする少年」のフレスコ画を見に行った。サントリーニ島のアクロティリ遺跡から発掘された。フレスコ画の破片を組み合わせ、欠けた部分を新たに補筆し、上手に復元してある。

 

髪の毛がお下げになっていたりして、一見すると「ボクシングをする少年」は少年女子ではあるまいかと、疑うほどの華奢な体つきである。しかし、解説によると肌の色が浅黒く描かれていたので、少年男子なのだそうだ。紀元前16世紀ごろのものと推定されている。

アクロポリス博物館はアクロポリスの麓に造られた博物館で5年ほど前に新築開館した。ギリシャの博物館にしては珍しく館内の展示物は撮影禁止。ここでは博物館入口の遺跡の写真を添えておこう。遺跡の上に建てられた博物館として話題になった。

 

博物館のテラスからはアクロポリスをまじかに見上げることができる。展示物を見たあと、テラスでパルテノン神殿を見上げながらお茶を飲むという楽しみ方もある。

アクロポリス博物館はアクロポリスの遺跡から出て来た品々を中心に展示している。こういう言い方は失礼だろうが、豪華で近代的な建物の割には、その中の展示物は考古学博物館と比べてそうとう見劣りがする。



14 ハドリアヌスの門

カール・マルクスの『資本論』とエドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』、それと中里介山『大菩薩峠』は一世代前の人々にとっては懐かしい本だが、これらを完全に読み通した人となるとほんの少数だろう。

この連載の筆者もギボンの大著の冒頭を読んだだけで投げ出した。冒頭部分にギボンが五賢帝の時代の「パクス・ロマーナ」について書いている。五賢帝の1人がハドリアヌス帝である。

 

そのローマ皇帝ハドリアヌスの門がアテネに残っている。門というと日本の城門のような防衛的なものを思い浮かべる向きもあるかと思うが、ハドリアヌスの門はパリの凱旋門のような、その下をくぐってお祝いをする祝祭・式典の門=アーチである。

ハドリアヌス帝はこまめに帝国の領域を視察する旅行を行った。ハドリアヌス帝は、ながらく未完のままだったオリンピア・ゼウス神殿をアテネに建て、またハドリアヌス図書館もつくった。

皇帝がアテネを訪れたさい、皇帝歓迎のために地元のお金持ちが資金を提供して建てられたのがハドリアヌスの門である。

ハドリアヌスの門のような式典のための門は日本にもあって、その典型的な門が那覇の守礼門である。琉球王国の時代、中国から皇帝の使節がやって来たとき、琉球国王や高官がこの門まで迎えに出て、頭を地面に押し付けて使節を迎えた。

古典ギリシャのポリスや直接民主主義の時代はアレキサンダーのヘレニズム世界の一部となって消え失せ、そののち、地中海世界を制覇したローマ帝国の属領となっていた。

エドワード・ギボンは五賢帝の時代を「地球上の最

善美の部分と人類中の最開化の部分とを包括していた」(村山勇三訳『ローマ帝国衰亡史』岩波文庫)と書いた。一方、『世界大百科事典』(平凡社)には、「近年の歴史研究の教えるところでは、肥大化する官僚・軍事機構の財政的負担が、地方都市の有産者層の財力によってかろうじて支えられることのできた時期であり、しだいに政治、経済、社会の諸問題が顕在化してきた時代と言える」とある。帝国はその最盛期に崩壊の坂道を下るようである。

ちなみに、「地球上の最善美の部分と人類中の最開化の部分とを包括していた」という日本語訳の原文は、

......the Empire of Rome comprehended the fairest part of the earth, and the most civilized portion of mankind.

太平洋戦争前の日本語訳である。戦後の中野好夫訳はもっと読みやすいようだが手元にない。

五賢帝の時代は、ネルウァ→トラヤヌス→ハドリアヌス→アントニヌス・ピウス→マルクス・アウレリウスと続く。一説によると、統治者にはもっとも優れた人がなるべきである、という考えに従って皇帝は後継者を選び、そのうえでその人物を養子にしたそうである。

さて、日本では20141121日、衆議院が解散し、総選挙の態勢に入った。解散したのは岸信介の孫、安倍晋三首相である。その安倍のお友達の元首相・麻生太郎は吉田茂の孫である。それ以前は福田康夫という首相もいて、こちらは福田赳夫の子である。そうそう、鳩山由紀夫元首相の祖父・鳩山一郎も首相を務めた。

現代ギリシャでも、最近までパパンドレウという首相がいたが、彼の父も、彼の祖父も首相を務めた人だった。そのギリシャにしても日本ほどの世襲好きではない。

さきごろ、Foreign Affairs (2014年11-12月号)で Pavlos Eleftheriadis “Misrule of the Few: How the Oligarchs Ruined Greece”という論文を読んだ。その結論は、ギリシャが抱えている根本的な問題は経済成長ではなく、政治的不平等である、というものだった。1990年代以降、一握りの裕福な家族がギリシャの政治を独占してきた。そうした少数支配の結果、9割以上の失業者が政府から支援を受けることができず、子どもの2割が極貧に暮らし、何百万の人が健康保険の恩恵を受けられないでいる。

旅行者に見えるギリシャと、そこで暮らす人の見るギリシャでは、風景は大いに異なっているようである。



15 シンポジオン


いっき飲みした学生が急性アルコール中毒でぶっ倒れ、救急車がサイレンを鳴らして駆けつける。こんな事例があちこちの大学キャンパスで多発、社会問題になったのはもうずいぶん前の話だ。

以来、ドライ・キャンパスが拡大を続けている。年に一度の大学のお祭りも、長屋の花見のように、オチャケでやっている所もある。

キャンパス禁酒令が出始めた10年ほど前、あちこちの大学の教授会で禁酒令をめぐって議論があった。禁酒令反対派が持ちだすのは、きまって「シンポジウムの語源はギリシャ語のシンポジオンで、あのプラトンの『饗宴』の原題はシンポジオンである。シンポジオンとはともに酒を汲むことである。衛生無害なキャンパスに学問は育たない」などというものだった。大学教師の中にも、当然ながら、新宿・ゴールデン街のような飲み屋街の雰囲気が好きな者がいる。

日本エーゲ海学会も例会の後、飲み会・シンポジオンを開く。恒例の夏のギリシャ研修旅行でも、毎日シンポジオンが繰り広げられた。談論風発的飲み会である。

ギリシャで飲む酒はワインと決まっている。ギリシャのワインは白が主流で、飲酒の写真は極めて単調になる。そこで、ワインと一緒に胃袋に収めたギリシャ料理のあれこれを写真で紹介して「北ギリシャ 晩夏 2014」の終わりとしたい。

野菜のサラダ

 

魚類の料理

 

 

野菜の料理

 

フェタチーズの料理

 

肉類の料理

 

 

フルーツ

 

ご覧いただいたとおり、洗練された西洋料理ではなく、地中海田舎料理であるが、ギリシャで食べればこれがめっぽううまいのである。

                              (写真と文: 花崎泰雄)