1 エルドアン

トロイ戦争の舞台となったアナトリア(小アジア)は古代ギリシャ時代にはエーゲ海世界の一部だった。ビザンチン時代のコンスタンティノープルは東ローマ帝国の首都で、ローマとはいうもののラテン語と同時にギリシャ語が用いられ、ギリシャ正教の世界だった。

そういうわけで、日本エーゲ海学会の研修旅行はギリシャからの帰り、必ずイスタンブールに立ち寄って数日を過ごすことになっている。

5年ほど前にイスタンブールに来たとき、いくつか見落としたものがあった。まず、スレイマン大帝のモスクが改修中で内部に入れなかった。金角湾の奥の方にあるエユップ・スルタン・ジャーミイとその上の丘にあるピエール・ロティのチャイハネを訪ねる時間がなかった。それから、トプカプ宮殿の台所にあった料理書をもとに、スルタンの料理を再現して提供するレストランでも食事する機会がなかった。宿題を片付ける機会であった。

アテネからイスタンブールへは828日に移動した。

828日はレジェップ・タイイップ・エルドアンのトルコ共和国大統領就任式の日だった。エルドアンはイスタンブール市長から共和国首相になり、憲法改正で国民の直接選挙で撰ばれた初の大統領になった。エルドアン大統領はトルコの政治を、これまでの議院内閣制からアメリカ合衆国型の大統領制に変えようとしている。野党に言わせると、エルドアン独裁体制を敷こうとしている。

その権力がどんなものかというと、一番わかりやすい例をあげると、新築された大統領公邸。

イスタンブールのメディアによると、それは建築費に700億円をかけた20万平方メートルの敷地に立つ部屋数1千室の、ホワイトハウス、クレムリン、バッキンガム宮殿を凌駕する宮殿だという。

新築の大統領宮殿は、エルドアンが首相時代に首相府の建物として計画したが、エルドアンの大統領選当選とともに大統領公邸に変更された。ついでに大統領専用機にエアバスA330も購入した。

権力者は宮殿好きだ。古くは秦始皇帝の阿房宮に始まって、現代ではマルコスが暮らしたマラカニアン宮殿、チャウセスクの宮殿、サダム・フセインの宮殿、カダフィの秘密宮殿――遊牧民族ベドウィンの出を看板にしていたカダフィは、海外出張のたびに世界の大都市のまん真ん中でテント生活をして見せたのだが――などなど。マルコスは命からがらマラカニアン宮殿からハワイに逃げ出し、チャウセスク、フセイン、カダフィは非業の最期を迎えた。

建国の指導者ケマル・アタテュルクはイスラム教を切り捨て、トルコ共和国を世俗国家にした。そうしたトルコにあって、エルドアンはトルコ農村部の保守層のイスラム回帰の気分をエネルギー源として、政治家としての階段を駆けのぼった。

エルドアンのイスラムへの傾斜や、トルコの伝統的なクルド族排除の政策で、米欧とトルコの関係が悪化しているためか、米欧はエルドアンの就任式に大物政治家を派遣しなかった。また、国内では野党の議員らがエルドアン大統領の独裁的な姿勢を批判して、就任宣誓式の場から退場した。なにやら穏やかではない出発である。



ケマル・アタテュルクは強権的にイスラムを排除することでトルコを世俗国家にした。たとえば公の場で女性がスカーフを被ることを禁じた。国立イスタンブール大学の教室では女学生はスカーフの着用を禁じられてきた。

エルドアンは親イスラム的な立場から、首相の時代の2008年に大学などでの女性のスカーフ着用禁止を解除する憲法修正を行った。だが、すぐさま憲法裁判所が修正は憲法の基本精神に反しており無効であるとの判断を示した。

トルコ共和国では、軍と裁判所と大学がケマル・アタテュルクの世俗主義を擁護する勢力である。アタテュルクは国民の直接選挙によって大統領になったわけではない。エルドアンは国民から集めた票数によって大統領に就任した。そして、アタテュルクがその強権で世俗主義を押し進めたように、アタテュルクに並ぶだけの力を得て、イスラム回帰の道をひたすら歩もうとしているように見える。イスラミストとケマリストの間に緊張が高まっている。

だが、はたしてエルドアンはアタテュルクと並ぶだけの力をもてるだろうか。828日のエルドアン大統領就任式の2日後の830日は戦勝記念日で国民の休日だった。 第1次世界大戦でドイツと組んだオスマン帝国が戦争に敗けると、ギリシャがアナトリアに攻め込んだ。その時、ムスタファ・ケマル率いるトルコ軍が、ギリシャ軍と戦い、1922年8月30日にギリシャ軍を総崩れさせ、エーゲ海に追い落とした。その記念日である。その日、イスタンブール大学の建物には特大のトルコ国旗とケマル・アタテュルクの肖像が並べて掲げられた。

こうしたトルコ共和国建国の歴史の上に立つアタテュルクと並ぶだけの権威をエルドアンが手に入れるのは相当難しいことである。



2 ピエール・ロティのチャイハネ

イスタンブールの旧市街の中心部から金角湾沿いの道路を入り江の奥の方へと車で走り続けると、やがてエユップ・スルタン・ジャーミーにたどりつく。金角湾が右方向に曲がり、間もなく入り江が終るあたりである。このイスラム寺院とのその門前町については次回に写真を載せよう。

エユップ・スルタン寺院の近くにロープウェーの乗り場がある。ロープウェーは斜面に広がる墓地の上を通って、それほど高くない丘の上に着く。このあたりがピエール・ロティの丘とよばれるところだ。

フランスの海軍士官としてイスタンブールに駐在したピエール・ロティことジュリアン・ヴィオーは、イスタンブールでの経験をもとに、『アジヤデ』という小説を書いて有名になった。オスマントルコのハレムの奴隷であるチェルケス人の娘との暮らしを、異国趣味をプンプン匂わせる筆致で書いた。19世紀末のフランス帝国主義の時代が生んだ作品である。

この小説は工藤庸子の訳で新書館から出ている。いまとなっては退屈な小説で、むしろ帝国主義的思考・エグゾティシズム・オリエンタリズムの研究用資料として使い道がある。

ピエール・ロティがしばしば訪れたのが、この丘の上のチャイハネ(茶店)だった。ピエール・ロティの『アジヤデ』を現在のイスタンブール市民がどのように評価しているかは、取材不十分で不明だ。だが、イスタンブール旧市街にはピエール・ロティという名のホテルがあるなど、観光用のピエール・ロティはイスタンブールにとって利用価値が高い。



ピエール・ロティの丘に登ったのは830日の戦勝記念日だった。金角湾の両岸の新旧市街が眺められる丘の上のチャイハネは、祝日を家族連れで楽しむ市民で込み合っていた。あいにくの曇天で、金角湾ことゴールデン・ホーンの絶景もヴェール越しに見るようで、いまひとつシャキっとしなかったのが残念だが。

ピエール・ロティはフランス海軍士官の立場をフルに活用し、出かけた海外のあちこちの港で女性遍歴を重ね、それをタネにフィクションや旅行記を書いた。日本にもやって来ている。当然、日本の女性ともねんごろになり、書いた本が『お菊さん』。野上豊一郎の訳(大正4年 1915)で岩波文庫に収められている。「明治18年、海軍士官として長崎に寄港したロチは、日本娘お菊さんと一夏を過ごした。これはその折の印象を記した半自伝的小説」と岩波文庫の赤い帯に書かれている。

『お菊さん』はやがて日本語訳になり、芥川龍之介が1920年に発表した短編『舞踏会』で、ピエール・ロティと日本の若い女性に明治の鹿鳴館でダンスをさせた。

幕末から明治にかけて長崎には外国人向けの娼館があった。ピエール・ロティことフランス海軍士官ジュリアン・ヴィオーはそうした娼館から小説で「お菊さん」とよばれることになった女性を軍艦が長崎寄港中の一夏の間買い取った。

幕末の長崎には稲佐遊郭があり、ここの娼館がロシア士官専門に遊女の貸し出しをしていた。その間の消息は中條直樹・宮崎千穂「ロシア人士官と稲佐のラシャメンの“結婚”生活について」(名古屋大学院国際言語文化研究科紀要『言語文化論集』第23巻、第1号、2001年)に詳しい。

この論文を読めば、ピエール・ロティ『お菊さん』の背景もおおよそわかる。

エドワード・サイードは『オリエンタリズム』で、フローベールとエジプトの踊り子クチュク・ハネムのセックスについて、オリエントはヨーロッパでは持ち得ない性的体験を探し求めることができる性的幻想による現実逃避の場であると評した。

極東でも同じことだった。日本にやって来た西洋人はしばしの慰安の相手として遊女を長期間買い受け、当時いうところの洋妾・ラシャメンとした。ラシャメンは生活のための仕事と割り切ってそのお相手をつとめた。蝶々夫人のテーマは外国人側が抱いた幻想で、「露をだに厭う大和の女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ」は地元側の、これまた幻想である。



3 エユップ・スルタン・ジャーミー

ピエール・ロティの丘の斜面には一面の墓地が広がっている。ここに埋葬されたいというトルコ人は多い。イスタンブール指折りの景勝の地であるばかりでなく、そこがイスラムとトルコ民族にとってのゆかりの地とされているからだ。

オスマン・トルコの軍勢がコンスタンティノープルのテオドシウスの城壁を破って城内に攻め込み、東ローマ帝国を滅亡させたのは、1453529日のことだった。とはいうものの、それ以前から東ローマ帝国は事実上の臨終状態にあった。

トルコ族は中央アジアから民族移動を続け、イランを経てアナトリアに移住してきた。13世紀の終わり頃には、アナトリアにオスマン1世が国を打ち立てた。やがて14世紀になると、オスマン・トルコは東ローマ帝国からアナトリアの主要部分を切り取り、さらにバルカン半島も奪った。

東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルはオスマン・トルコの領土にポツンと取り残されていた。東ローマ帝国はもはや死に体になっていたが、首都コンスタンティノープルの陥落には時間がかかった。コンスタンティノープルを囲むテオドシウスの城壁が堅固で、難攻不落だったからである。

メフメト2世率いるオスマン・トルコ軍とコンスタンティン・パレオロガス皇帝の東ローマ帝国軍は1か月以上にわたって激しく戦った。

この戦の最中、現在のエユップに陣を張っていたオスマン・トルコ軍が、ムハンマドの側近だったアブ・アッユーブ・アル=アンサリの墓を見つけた、という言い伝えが残っている。アッユーブは670年にアラブ軍がコンスタンティノープルを攻撃したときに従軍し、そこで死んで埋葬されたという。アッユーブがトルコ語化してエユップという地名になった。

1453年にコンスタンティノープルを手に入れたオスマン・トルコはギリシャ正教の大本山ハギア・ソフィアをモスクに変えた。そのあと、エユップにイスタンブールを首都にしたオスマン朝最初のモスクをエユップに建てた。エユップ・スルタン・ジャーミーはイスタンブールに数あるイスラム寺院の中の古刹なのである。



エユップ・スルタン・ジャーミーはテオドシウスの城壁の内側にある旧市街のモスクとは雰囲気が違う。外国人観光客が少ないせいである。古刹の門前町のような雰囲気が漂うエユップの商店街は、言ってみれば巣鴨地蔵の商店街のような賑わいである。観光土産品の代わりに日用雑貨が売られている。食べ物も安い。イスタンブールという国際都市ではなく、どことなくトルコの田舎のにおいがする街なのである。
  

エユップ寺院の境内ではディズニーの王子様風の衣装をまとった男児の姿が目についた。割礼のお祝いの衣装である。イスラム教徒やユダヤ教徒の間では男子が幼少期にくぐりぬけなければならない痛い通過儀礼だった。イエス・キリストも割礼をうけたと言われている。現代では、割礼は病院で麻酔を使って行われるようだが、異教徒からみると恐ろしいしきたりである。七五三の晴れ着の背後に割礼がひそんでいるようなものである。



4 シュレイマンのモスク

5年ほど前イスタンブールに来たとき、シュレイマニエ・ジャーミーは改装中で、内部には入れなかった。イスタンブールのヨーロッパ側旧市街の高台にそびえるシュレイマニエ・ジャーミーは、オスマン帝国を世界帝国として完成させたシュレイマン大帝の威光を反映させる堂々たるモスクである。夕暮時、金角湾側から見るこのモスクの威容には息をのむものがある。



「はじめてこのモスクのなかに入ったとき、最初に受けた印象は堂内の隅々までゆきわたる明るく整った美しさであった」。日高健一郎は著書『建築巡礼 イスタンブール』(丸善 1990年)にそう書いている。彼は、オスマン・トルコ建築の最高傑作であるシュレイマニエ・ジャーミーの内部が窓からさしこむ午後の光に光り輝き、400年以上の歳月を感じさせない明るさであることに、逆に、軽い失望感を覚えたという。

オスマン帝国の代10代スルタンであるシュレイマンは在位中の15201566年の間に、帝国の領土を東地中海に沿ってアジア・アフリカ・ヨーロッパに拡大させた。シュレイマン自身も自ら軍を率いて侵略戦争に出かける事、歴史の本によれば10回を超えた。1529年にはウィーンを包囲した。ロードス島のヨハネ騎士団を攻撃して島を奪取、東地中海の制海権を手にした。さらにインド洋に出て、ポルトガルと海上覇権を争った。国内では法・行政・軍を整備した。

シュレイマンの廟と彼の妃ヒュッレムの廟はシュレイマン・モスクの構内に並んで建っている。廟は5年ほど前に見た。ヒュッレムはウクライナから連れてこられたトプカプ宮殿の奴隷で、キリスト教徒だった。シュレイマンに気に入られてシュレイマンとの間に5人の子どもをもうけた。

ヨーロッパ諸国ではロクセラーナの名で知られるヒュッレムは、なかなかの陰謀家だった。シュレイマンが別の妃に生ませたムスタファがシュレイマンの後継者として有力視されるようになると、ヒュッレムはムスタファが反逆を企んでいるとシュレイマンに吹き込んだ、という説がある。シュレイマンはムスタファを反逆者として処刑した。この処刑に対しては軍の内部で批判があり、反乱も起きた。

ムスタファを排除できたおかげで、ヒュッレムは自分が生んだシュレイマンの子をセリム2世としてスルタンの座に就かせ、ヒュッレム自身はスルタンの母としての威光をかさにオスマン朝の宮廷政治を牛耳った。

シュレイマンのあと、スルタンはセリム2世−ムラト3世−メフメト3世と続く。シュレイマンのひ孫にあたるメフメト3世はオスマン朝で最も悪名高いスルタンだった。スルタン・メフメット三世が即位した1595年、メフメトは彼の兄弟19人と、彼らの子を身ごもっている15人の女奴隷を皆殺しにした。

日本でも源頼朝は弟の義経を滅ぼし、豊臣秀吉は養子の秀次を切腹させた。朝廷は一時南北に分れて対立した。どこの国でも権力の中枢には血みどろの戦いがある。

オスマン朝のスルタンは日本国の天皇と同じように男子継承制だった。オスマン朝は15世紀から17世紀にかけて、安定したスルタンの独裁体制を維持する目的で、親族殺人の制度を続けてきた。スルタンが世を去り新しく後継者が決まると、その後継者は自分の兄弟と兄弟たちの男の子どもを殺してしまうのがならいだった。権力継承をめぐる内紛の芽をあらかじめ徹底的に摘み取っておくのがその目的だった。イスラム教は殺人を罪悪としているが、スルタンの兄弟殺しは政治動乱・内戦を予防し社会の安定を図ることを目的に行われるものであるから、これは支配者だけに例外的に許される行為である、とウラマーも兄弟殺しを正当化していた。

スルタンの身内を殺すにあたっては、高貴な血を流すことがはばかられたので、絹製の紐で首を絞めるか、浴槽で無理やり溺れさせるかして殺したといわれている。



シュレイマニエ・ジャーミーのドームのなかは、そうしたオスマン朝の宮殿で繰り返された殺戮の歴史を忘れさせるほど屈託がなく明るい。歴史の本によると、シュレイマンの時代にオスマン帝国はバルカン半島を領域に収めて神聖ローマ帝国と向き合い、黒海の北側でロシア帝国と対峙し、カスピ海でペルシャと国境を接した。世界帝国の仲間入りをしたオスマン帝国はシュレイマン後も約400年続くが、それは緩慢な衰退の時代となった。オスマン帝国が周辺から掠め取った領土は、近代化で力をつけたイギリスをはじめとするヨーロッパの列強に剥ぎ取られていった。



5 イスラム回帰

シュレイマンのモスクを出て、イスタンブール大学のキャンパス沿いにだらだら坂を下って、ベアジット・モスク近くの広場まで下りた。そこで蚤の市が開かれていた。

  

筆者が住んでいる東京の団地近くの公園でも、日曜日にときどきフリーマーケットが開かれている。大勢の人が掘り出し物を探そうと集まってくる。

安いものを見るとつい買いたくなるのが人間の習性である。その昔、地方公共団体の清掃局の人から聞いた話なのだが、粗大ごみとして捨てられた、家具や自転車などを修理・修繕して掘り出し物市を開催すると、いつも大変な盛況になる。買った掘り出し物もやがて粗大ごみになるのだろうが、買い物というのは人間にとって娯楽なんですナ、とその人は言った。

イスタンブールの蚤の市で女性が地べたにしゃがみ込んで店番をしていた。女性は全身を黒い布で覆い隠し、顔の一部――目のあたりだけを露出させていた。イスラムでいるニカブという被り物なのだろう。



エルドアンの時代になって、彼の率いる公正発展党(AKP)がイスラム教徒を支持母体にしていることから、世俗国家トルコ共和国の過去のかたくななまでのイスラム的なものへの嫌悪と排除の姿勢が緩んできている。

この店番の女性がトルコ人の女性で最近になってニカブを着用し始めたのか、あるいはイランなどからやって来た女性なのか、話をきく術を持たなかったので、はっきりとはしないのだが。

とはいうものの、イスタンブール市内をあるいていると、ときどき黒ずくめの女性をみかた。5年ほど前に来たときは全然見掛けなかった。

 

トルコのイスラム回帰のあらわれの一つなのであろう。1990年代からエジプトやインドネシアで、スカーフを被る女性が増えた。エジプトではヒジャブ、インドネシアではジルバップという名だった。顔は露出させてもいいが、髪の毛と耳と首をスカーフで隠す、言ってみれば、戦後の日本人を熱狂させた『君の名は』の真知子巻きのようなものである。

きれいな模様の絹のスカーフであればおしゃれなのだが、インドネシアでは真っ白なジルバップがより宗教的なのだろうか、主流だった。真白い真知子巻きとなると、叡山の僧兵のかぶりもののようであり、見ているこちらも緊張する。

イスラムの被り物を警戒しているヨーロッパ諸国は、EU加盟を希望しているトルコのイスラム回帰の傾向に注視している。フランスでは、フランス人であれ外国人であれ、すっぽりとかを覆い隠すヴェールをまとって外出することを法律で禁じている。フランスほど厳しくはないが、スペインのバルセロナのような自治体が、図書館や役所でヴェールをかぶるのを禁じている。

女性の被り物に象徴されるエルドアン政権のトルコのイスラム回帰が、場合によってはトルコのEU加盟の障害になる可能性もある。

    ――終わり――

                                                  (写真と文: 花崎泰雄)