1 釜石港湾口防波堤

釜石湾を俯瞰しようと、湾の南側の丘の上に立つ釜石大観音の像にのぼった。正確な地名は釜石市大平町の鎌崎半島。1977年に建てられた鉄筋コンクリート製の高さ49メートルほどの白い観音像である。身長はニューヨークの自由の女神像とほぼ同じ。ちなみに自由の女神像は台座の上の足元から掲げたたいまつの先までが46メートル。

釜石大観音内部のらせん状の階段を上って行くと、観音像の左わきの下あたりに開口部があり、小さな展望テラスがもうけられている。

そのテラスから釜石湾を見下ろすことができた。傾き始めた午後の太陽を受けて、海面はあくまで青く輝き、鎌崎半島の丘とその上に立つ観音像が湾に影を落としている。海面上の影に槍の穂先のように突出しているのが観音像の影である。



観光気分はそのくらいにしておいて――。湾内に浮かぶ船の向こうに白い線状の物が2本見えるだろう。釜石港湾口防波堤である。

過去の度重なる津波被害から釜石を守るため、1978年に工事を始め、31年をかけて2009年に完成した防波堤である。湾の水深60メートルを超えるところに、大量の岩石を沈め、その上にコンクリートの巨大な箱・ケーソンを積み上げた防波堤だ。北側(写真左手)の防波堤が長さ990メートル、南側が670メートルある。

だが、2011311日の東日本大震のもたらした津波は、過去の津波の経験を上回る規模だった。大津波は完成して間もない海面上高さ5メートルの釜石港湾口防波堤を破壊し、乗り越えて釜石市街地を襲った。

津波被害の後、湾口防波堤がどの程度役立ったかを専門家が検証した。その結果は、自然の力は人間の営為を一飲みにし、粉々にかみ砕いてしまうという恐怖の再認識であり、だが同時に、湾口防波堤はそれなりに減災に役だったという認識だった。

もし釜石港湾口防波堤がなかったとすると、釜石港内の験潮所では津波の高さが13.7メートに達したであろうという計算結果が得られた。実際には高さ8.1メートルだった。差し引き5.6メートルの低減効果があったという計算になった。同時に、防波堤があったおかげで、津波が海岸の防潮堤を乗り越えてきた時刻が、防波堤がなかった場合に比べて6分遅くなったこともわかった。避難のための貴重な時間が稼げたのである。

5年前の3.11津波で破壊された釜石港湾口防波堤は、震災後まもなく修復工事が始まり、これまでに600億円近くをかけて、工事はあらから終了した。

2011311日の東日本大震災・津波被害から5年がたった2016年の今年春に宮城県の海岸を見て歩いた。その続きとして9月初旬、岩手県の釜石、大槌、大船渡、陸前高田を回った。その報告をしばらく連載する。



2 根浜海岸

釜石港湾口防波堤の効果で釜石湾内の津波の高さは幾分軽減された一方、釜石市北部の箱崎半島の付け根部分にある同市鵜住居町は高さ14メートルの大津波に襲われた。

津波による死者・不明者が1300人近くに達し、町の8パーセント余りが一瞬にして失われ、町役場も町長を始め数10人の職員が死に、町の行政機能が麻痺してしまった大槌町と、釜石市鵜住居町は大槌湾を挟んで向かい合っている。

鵜住居町には根浜海岸という景勝地がある。2011.3.11以前の地図を見ると、根浜海岸は「白砂青松100選」に指定され、古くからの水泳場もあった。海岸線の白砂は津波にさらわれ「ネバマ・ビーチ」は消えた。海辺の松林も多くが失われた。

観光資源が壊滅してしまったのだ。失意の鵜住居町の人々を元気づけるために、釜石市はラグビー・ワールドカップ2019日本大会の会場に立候補した。釜石市はかつて日本ラクビーの覇者だった新日鉄釜石の町だ。鵜住居町の人々もこれを歓迎した。

めでたく釜石市は日本大会の12会場の1つに選ばれた。ラグビー競技場は津波で壊滅的な被害をうけた鵜住居町に造られる。かつて釜石市立釜石市東中学校と鵜住居小学校のあった場所である。

釜石東中学校も鵜住居小学校も津波に襲われた。だが、両校にいた児童・生徒570人全員が素早く非難して、1人の死者も出さなかった。学校は海から500メートルのところにあり、日ごろから防災訓練をつんでいた。この迅速な避難ぶりはのちに釜石の奇跡とよばれるようになった。

2011年の『広報ぼうさい』(特集 東日本大震災から学ぶ)で紹介された釜石東中学校の生徒と先生の避難体験談をそのままの形で引用しておこう。

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2011年3月111446分頃、地震が起きたのは生徒たちが放課後の部活動の準備をしている真っ最中でした。訓練通りに全員が校庭に集まると、『点呼はいいから、すぐにございしょの里(指定避難場所)に走りなさい』という指示が先生から出ます」
 「私たちはいつも避難訓練で走っていた避難路を必死で走りました。ございしょの里まで500m。訓練時よりも足が重く、震えて息が早くなりました。それでも何とか辿り着き、“避難訓練の通りにしていれば大丈夫”と心の中で何度もとなえながら、素早く整列して点呼を取りました」(金野さん)
  少しして小学生の児童たちが合流。すぐに「ここは崖崩れがあるかもしれないから、もっと高い所、山崎デイケアまで避難します」という副校長先生の指示が出ます。
「生徒たちはこれまでの訓練通り、小学生の手を引きながら、さらに500m先の高台にある介護福祉施設を目指します。ございしょの里が津波にのまれたのは、それから間もないことでした。
 「気持ちを落ち着けながら、小学生に“大丈夫だよ、大丈夫だからね”と話しかけました。私たちがしっかりしなきゃと、泣きそうなほど怖い気持ちを、奮い立たせました」(金野さん)
  介護福祉施設に到着した直後、施設の裏手から轟音が響き渡ります。「津波が来たぞ。逃げろ!」という大人たちの叫び声。子供たちはさらにその上の国道に向かって無我夢中で走り続けます。もうこれ以上は山しかないという国道沿いの石材店まで辿り着き、子供たちは思わず道路の真ん中にしゃがみこみました。彼らの目の前には、見慣れた街並みが津波にのまれ、押し流されていく信じられない光景が広がっていました。すべてが避難開始から30分足らずの出来事でした。

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釜石市鵜住居町・根浜海岸のかろうじて残った松の疎林の中に、「二千十一 3.11」と刻まれた黒御影石の大きな慰霊碑が建てられている。



3 ビストロ・キリキリ

前回ふれた釜石市鵜住居町の小中学校の見事な避難ぶりがメディアの話題になるとともに、「てんでんこ」という言葉が全国に広まった。

1896年の明治三陸地震・津波 、1933年の昭和三陸地震・津波と、津波被害をこうむってきた三陸地方では「津波てんでんこ」という言葉が言い伝えられてきた。

「てんでんこ」とは「てんでに」「めいめいで」の意味で、大地震があり、津波の恐れがある時は、まず、とるものもとあえず各自で高いところに逃げよ、という意味である。自分の命は自分で守れ、家族・知人を探しに行くことでかえって死者が増える、という厳しい経験則から生まれた。だから、自分だけが助かったとしても、そのことは非難されるべきでない――。一瞬にして生と死を分かつ緊急事態の下での、きびしい選択である。

それはさておき、釜石市の北側の大槌町も津波被害で甚大だった。当時の大槌町役場も津波に襲われ、町長をはじめ40人の役場職員が犠牲になった。役場職員の約3割にあたる。

津波に破壊された大槌町役場跡は以来、津波被害の一種の記念碑のようになり、行政・防災関係者を始め全国から多くの人が訪れる場所になった。


       2011年                              2013年

役場跡を震災・津波の遺構として保存するか、あるいは解体してしまうか、この5年間町を二分する議論が続いたが、まだ、最終的な結論は出ていない。今年中に結論を出すことになっている。

その大槌町吉里吉里――井上ひさし『吉里吉里人』とは関係ないようである――の最初の復興仮設店舗「よってったんせぇ」が、5年間の営業を終えて831日で閉店した。まだあたりに瓦礫が残っている20118月に開店した。カレーとラーメンと焼きそばでスタートし、徐々にメニューを充実させていった。食堂を運営してきたのは地元の生活改善グループ「マリンマザーズきりきり」のメンバー。

地元の人たちが集まれる場所を目指した食とコミュニケーションの場「よってったんせぇ」は、やがて復興ボランティアが足しげく訪れる場所になり、復興工事で働く人々がお昼ごはんを食べに来るようになった。被災から立ち上がった地元の女性たちが運営する“ビストロ・キリキリ”は、その心意気によって地元メディアが取り上げる話題になり、岩手県の全国に向けた復興PRにも使われるようになった。



閉店の2016831日のお昼時、「よってったんせぇ」は大勢の客でにぎわった。復興工事の人――ビストロ・キリキリの周辺ではなお復興工事が続いている。近隣のデイケアセンターからマイクロバスでやって来たお年寄りの団体。「マリンマザーズきりきり」の活動支援のために、「大津波にも負けず頑張る母ちゃん!応援隊」を組織した盛岡の人、その幹事長だった大船渡の人、応援隊員だった東京の人。そして閉店の取材にやってきた地元紙『岩手日報』の記者。

みんなに記念のキャンディーが配られた。





4 高台の仮設住宅

どこでどう見積もりを誤ったのか――再見積もりをするごとに2020年の東京オリンピック・パラリンピック大会の経費が水膨れしていく。

たまりかねた小池・東京都知事がボート競技の会場を宮城県に移す案を出した。小池提案を受けて、村井・宮城県知事が東日本大震災の被災者用に建てたプレハブ仮設住宅を改造して選手用の宿舎にしてはどうかという案をひねり出した。

2011年の大震災・津波のあと、宮城県内にはプレハブの応急仮設住宅が406団地約22000戸用意された。5年後の20169月現在の宮城県の公式ウェブサイトで「応急仮設住宅供与及び入居状況」の表を見ると、このうち3300戸ほどが解体されている。ということは、差し引き19000戸弱がまだ残っていることになる。残っている戸数の入居率は42パーセント弱で、空き家率は58パーセント強になる。だが、この表を見て「うむ!」とうなってしまうのは、当初建てられた仮設22000戸のうち、なお、7,826戸に16,538人が住み続けている事実である。あれから5年たっても仮設入居率は当初の戸数の35.4パーセントになる。

状況や事情は異なるが、1995年の阪神・淡路大震災の被災者の場合、5年後には仮設住まいの人は皆無になった。



前回のビストロ・キリキリ「よってったんせぇ」があった場所のすぐ裏手が高台になっている。この丘の上に幼稚園がある。津波もここまではのぼって来なかった。幼稚園のすぐ隣に仮設住宅団地がつくられた。5年たった今でも人が住み続けている。

岩手県の公式ウェブサイトで2016930日現在の「「応急仮設住宅供与及び入居状況」を見ると、同県内には319団地14000戸弱の仮設住宅が建てられた。現在の入居率は当初建設戸数の43パーセントになる。

福島県の仮設住宅の状況も似ているが、福島の場合、原発メルトダウンがあったことで、県外に脱出したまま、同県に帰ってこない人が4万人に達している。

オリンピック・パラリンピックの東京誘致のさいに「おもてなし」と海外に媚を売った手前もあって、震災・津波被害者仮設住宅を転用した選手村は、主催者として忸怩たるものがあろう。見栄を張りたい気持ちは理解できるが、今の日本の実力を認識することも大切だ。

仮設転用選手宿舎だからといって、おもてなしができないわけではないのだから。5年間住み続けている人に比べれば、選手村暮らしはあっという間なのまだから。



5 大船渡の屋台村

大槌町吉里吉里を午後遅く出発して、途中、道草を食いながら大船渡にむかった。

大船渡の手前で日没になった。予約したホテルはかつてJR大船渡線の大船渡駅があった場所近くである。

東日本大震災による津波をもろに受けて、大船渡線も大船渡駅も無残なまでに壊された。

津波から半年ほどあとの2011年夏、大船渡へ行って大船渡駅を見た。駅舎は消滅し、線路は土砂に埋まり、かつての駅プラットホームが形だけをとどめていた。

JR大船渡線は大船渡市の盛駅から陸前高田を通って宮城県・気仙沼駅を経由し、一関に至る鉄道だった。津波で沿岸部の盛駅―気仙沼駅間の線路がいまなお破壊されたままだ。JRは盛―気仙沼間をバスで結んでいる。

ちなみに盛岡から宮古を経由して釜石に至るJR山田線も沿岸部の宮古―釜石間が不通になったままだ。大槌町吉里吉里の最寄駅は山田線の吉里吉里駅だったが、この5年間列車の音は聞こえてこないままだ。

そういう事情なので、三陸沿岸部を移動するには自動車に頼るほかない。ところが、沿岸部にはかさ上げの土盛工事などの都合で道路がつけかえられている地域がところどころにあって、カーナビゲーションが当てにならなくなっている。

予約した大船渡のホテルは大船渡湾の海岸線近くの、津波で一切合財が洗い流された場所に建て替えられていた。ホテルの周辺は土木工事現場そのものだ。闇の中にホテルらしい高層の建物が見えるのだが、そこ行き着く道を見つけるのが容易ではなかった。一夜明けて、ホテルの窓から眺めた周辺の景色はご覧の通りだ。正面右手の大きなビルもまたホテルである。

泊まったホテルの近くに震災後に立ち上げた屋台村があると聞いていたので、晩ごはんを食べに出かけた。大船渡の屋台村も、大槌町吉里吉里のビストロ・キリキリと同じ、津波にくじけてなるものか、という地元の意思表示が具体化されたものである。津波の後、201112月に20店ほどの屋台飲食店が集まってオープンした。3年を限っての営業だったが、2014年に3年間の延長が決まり、今のところ2017年の暮れまで営業を続ける予定だ。

魚料理の屋台に入ったら30人ほどの男性が宴会を開いていた。立ち上がって挨拶する人がいる。歓迎会か送迎会だろう。トイレで言葉をかわした男性から聞いたところでは、他県の自治体から応援で大船渡に派遣された人が、派遣期限を終えて元の役所に帰任する送別会だった。教えてくれた男性もまた、長野県庁に勤める公務員で大船渡に応援出張中だった。

2011年の夏、三陸沿岸を回った時は、他府県ナンバーの派遣パトカーがやたら目についた。さすがに今では県外ナンバーのパトカーを見ることはないが、津波被害に遭った自治体は、なお他の自治体からの応援が必要な状態から抜け出せていないらしい。



屋台村の敷地中央の中庭。涼しい夜風の中でビールを飲み、談笑する人の姿があった。お疲れさん。



6 15.1メートル

三陸のリアス式海岸には小さな半島と小さな湾が連続している。陸前高田市も広田湾とよばれる小さな湾の奥にある。

広田湾は広田半島と唐桑半島にかこまれている。湾口が5キロ、湾の奥行きが9キロ、湾の面積が37平方キロメートルほどの小さな湾だ。湾の奥に平地が広がっていた。三陸海岸では広い平地だった。

平地の海側に白砂青松の高田松原があった。7万本の松の木が生えていた。松原のすぐそばを国道45号が走り、JR大船渡線の線路があった。そこから内陸に向って市街地・陸前高田市高田町が広がっていた。

襲ってきた津波は高さ15.1メートル。高田松原沿いの国道45号に津波の高さを示す柱が建てられている。15.1メートルといえば集合住宅の4-5階の高さだ。見上げるだけで恐怖に襲われる。

2011311日の高さ15.1メートルの津波が高田町一帯をさらっていった。同町内では人口7,601人のうち1,173人が死んだ(行方不明者含む)。陸前高田市全域の死者・不明者が1,753人だから高田町の被害のすさまじさがわかるだろうろう。

陸前高田市では地震と津波で市内のほぼ全世帯(99.5%)が被害にあったが、被害の深刻さは高田町に集中した。2,840世帯中2,047世帯の家屋が津波で全壊した。

陸前高田市庁舎、全壊。中央公民館、全壊。図書館、全壊。博物館、全壊。市民体育館。全壊。消防庁舎、全壊……。

高田松原沿いの国道45号に、かつて道の駅だった建物が津波当時のままの姿で保存されている。

 
          2011年8月                                2016年9月



7 盛り土

「盛り土」と書いて「もりど」とよむ。東京・築地市場の移転先の豊洲市場問題で一般に流布した言葉である。一般の日本語辞典では「もりつち」である。『広辞苑』に「もりつち――地面の上にさらに土を盛って高くすること」とある。

「もりど」という重箱読みは土建業界のジャーゴンである。「もりつち」という一般に通用する読み方がありながら、メディアは土建業界内の特殊用語をそのまま使った。なぜだろうか。聞きなれない「もりど」という言葉の響きが面白いと考えたからだろうか。

メディアの言語感覚をめぐる問題はさておき――陸前高田市では2011年の3.11大津波で壊滅した中心市街地再興に向けて、防災地盤かさ上げのための盛り土作業が今も続いている。



地盤かさ上げ工事のための土砂は周辺の山をいくつか削って確保した。土砂採掘現場から盛り土現場まで、長さ3キロのベルトコンベアを建設し、かさ上げに必要な土砂の量は約800万立方メートルを運んだ。六甲の山を削って人口島をつくった神戸市の手法でおなじみのやりかたである。神戸市の場合は土砂採掘現場から海岸までベルトコンベアを建設し、そこから運搬船に積みかえて埋め立て海域に運んだ。

20169月、陸前高田市では土砂運搬作業がおわって巨大なベルトコンベアは撤去されていた。運び込んだ土砂を使って整地作業が行われていた。

整地作業が終ったらここに公共施設や商業施設を呼び戻し、かつての住民に帰ってきてもらう計画だ。

だが、ここに以前のような中心街が再現できるかどうかは、陸前高田市の人口推移にかかっている。

国勢調査をもとにした同市の人口は1980年に29,356人、1990年に27,242人、2000年に25,676人、2010年に23,300人、津波の後の2015年に19,758人だった。市の人口は減少の一途をたどっている。

将来予測はもっと悲観的だ。推計によると2040年には陸前高田市の人口は13,088人になる。65歳以上の老年人口が51.4パーセント(2015年は36.8)、生産年齢人口が41.5パーセント(2015年は53.3)を占めるような人口構成になる。

こうした人口構成の推移をにらみながら、陸前高田市は盛り土の上にどのような街づくりをするか、模索中である。その陸前高田市の市庁舎も津波で全壊し、現在は高台の上に仮設庁舎を建てて行政サービスにあたっている。

津波の年、2011年夏に陸前高田を訪れた時、平野部に広がっていたはずの市街地は荒れ野になっていた。国道45号を走る車も少なく、人の気配もなく、静まりかえった異様な風景だった。20169月、同じ場所から旧市街地方向をながめると、盛り土作業は進められているが、作業車のエンジン音も作業をする人の声も聞こえてこなかった。矢張り静かであった。



どんな市街地が再生され、そこににぎやかな声が戻るかどうか。人口減による地方都市の衰退を防ぐ方法は、盛り土よりもさらに難しい。



8 奇跡の一本松



2011年の夏に陸前高田市の高田松原にやって来たとき、あらゆるものが津波にかっさらわれて真った平らになった海岸沿いに松の木が一本立っていた。日本全国で話題になった高田松原の奇跡の一本松だ。

高田松原は国指定の名勝で海岸線に約7万本の松があった。江戸時代から植林が受け継がれてきた。白砂青松の高田松原は夏には海水浴客でにぎわった。

津波をくぐって生き延びた一本松だが、地震による地盤沈下で根の周囲の土壌に海水がしみ込むようになった。一本松は衰弱を強め、やがて専門家が診断した結果、木は死んでいると判定した。

奇跡の一本松に不屈の精神力を感じる人が多かったのだろう。一本松の保存運動が始まった。国内国外から15千万円が寄せられた。

保存作業は2012年から2013年にかけて行われた。可能な限り松の幹の部分を残し、炭素繊維強化複合樹脂を使って幹の強度を高め、支え無しで一本松として独り立ちできるようにした。枝や葉の部分はレプリカを製作して幹に添えた。根を掘り起してコンクリートで根の代わりになる土台をつくった。

復元された一本松は2013年の夏から元の場所に立っている。

2011年高田松原を訪れたとき材木の山が築かれていた。津波で倒された高田松原の松の木である。

この松材を薪にして京都の2011年の五山送り火で焚くプロジェクトがメディアで伝えられた。陸前高田の被災者たちが薪に鎮魂の言葉と復興の誓いを書き込み始めた。だが、京都では陸前高田の薪を焚くことで放射能が広がるのではないかという声が高まった。薪の放射能検査をしたが基準値を超える量の放射性セシウムは検出されなかった。しかし陸前高田の薪を焚くことへの反対はおさまらず、結局このプロジェクトは中止になった。

傷心の陸前高田の人々は88日の夜、京都に受け入れを拒否された333本の薪を迎え火として陸前高田市内で焚いた。

20169月、奇跡の1本松は土木工事現場の巨大クレーンのかたわらにしょんぼりと立っていた。





9 頑張った母ちゃんたち

このシリーズの第3回で取り上げた大槌町吉里吉里の「よってったんせぇ」は「大津波にも負けず頑張る母ちゃん!応援隊」の支援を受けていた。

「頑張る母ちゃん応援隊」は岩手県職員OBを中心に岩手大学や岩手県立大学の先生たちが、2011年の暮れに立ち上げた組織だった。津波被害を乗り越えて地域の再活性化の一翼を担おうと活動を始めた女性による農林漁業関連のスモール・ビジネスを支援するのが目的だった。

応援隊が支援してきたのが、大槌町吉里吉里の「よってったんせぇ」と陸前高田市広田町の惣菜工房「めぐ海(めぐみ)」と陸前高田市竹駒町の野菜直売所「小さなやさい屋さん」の3つの事業だ。いずれも津波の前から女性たちだけでビズネスを始めていた。だが、津波で店舗も工房も失った。ゼロからの復活に立ち上がった頑張る母ちゃんたちの心意気に応じてできた応援隊だった。

「応援隊」は全国から人を呼び込んで岩手県三陸沿岸に案内した。津波被害の深刻さをその目で確かめてもらった。勉強会や報告会、集会を開いた。被災地で暮らしの再生に努力する住民と津波被害に強い関心を持つ県内・県外の人々の間を取り持った。見学する人が得たものは被災地の人々に対するより深い関心であり、被災地の人は「私たちは忘れられてはいないのだ」という励ましを得た。

陸前高田の広田湾は北の広田半島、南の唐桑半島によって包み込まれている。津波被害は広田湾奥の陸前高田市高田町一帯で最も深刻だったが、唐桑半島や広田半島の海岸地域も津波被害を受けた。



20169月の初め、広田半島にある工房「めぐ海」を訪ねた。工房のキッチンではメンバーが目玉商品のおやきをつくっていた。一番の売りは三陸海岸のワカメとホタテをあんにしたおやきである。信州のおやきは野菜中心だが、めぐ海のそれは海産物中心なのである。催事場での即売や通信販売で三陸味噌などの加工食品の販路を開拓している、とメンバーはビジネスの進展ぶりを楽しそうに話してくれた。自分たちが仕事を通じて世の中の動きとつながっているという実感がさらなる励ましになる。

「小さなやさい屋さん」も竹駒町の道路脇の仮設店が並ぶマーケットの一角で頑張っていた。「大津波にも負けず頑張る母ちゃん!応援隊」は2015年にビジネスが順調に展開し応援の必要がなくなったとして隊を解散した。「よってってたんせぇ」も2016831日をもって閉店した。「めぐ海」と「小さなやさい屋さん」が20169月の時点でビズネスを継続していた。

応援隊の会長・宮下慶一郎さんは財団法人岩手生物工学研究センターの理事長をしていた人で、幹事長の藤原りつさんは大船渡で農業改良普及員の仕事をしていた人だった。2人とも「よってったんせぇ」の閉店日831日に店に姿を見せた。

応援隊の顧問だった古川勉さんは、震災と大津波の直後の20114月に大船渡の農業改良普及センターの所長として赴任した。それから3年間大船渡で地域の農業立て直しに奔走した。その古川さんが『3・11 私のアーカイブ――東日本大震災津波から一年の記録』を自費出版した。東京への帰り北上市によって古川さんに会い、頑張る母ちゃんたちの印象を聞いた。

「父ちゃんたちはあれこれで大きなことを口にするのだが、いざ実行となるとこんどは否定的な事ばかりを言って話が前へ進まない。母ちゃんたちは黙って目の前にある事から片づけてゆく。女の人はえらい。頭が下がりますよ」

津波後の農業再生の現場から得た印象で、なるほどというところがある。津波後の5年間については、「復興は進んではいますが、こんなに時間がかかるものかなあ、という気持ちもあります」ということであった。

(写真と文: 花崎泰雄)